揺れる時間

ピアノを習っていると
自分について知らなかったこと
意識していなかったことを
色々と知ることになる。
それが面白くて
ピアノを弾いている。
誰かに何かを伝えたいわけでも
自己表現をしたいわけでもない。
それは延々と走り続ける
長距離走者のようにもある。
彼らも記録や勝ち負けだけでは
ないものがあるから走るのではないか
そんなことを思っている。
あなたは拍感覚が乏しいから
音楽を正しく組み立てられない。
師匠はそんなようなことを言う。
拍感覚というのはリズム感的なことかと
最初は思ったのだが、そうではなかった。
足並みのように一定のテンポで
繰り返す拍子のつらなりのことである。
それは流れてゆく時間を
表す秒針のようにでもある。
それが正しく刻めないということは
自分の中の時間が揺れている
ということではないかと思う。
正しく刻む感覚を身につけたいと思う。
そうすれば世界を
音楽的に解釈することができるだろうか。

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夕暮れの意味

休みの日にベランダに立って
冬の日が暮れてゆくのを見ていた。
太陽はオレンジ色で山の上にあった。
何度も、何度も見た景色だけれど、
いつでも私は変わっているから
私と太陽の関係もまた変わっている。
私が見えているものは、私も見えている。
そのはずだと思う。
線香花火の火の玉が
どぼんと水に落ちるように
太陽は山の向こうに落ちて行った。
後に残るのは闇と青の境界だ。
美しさとは何だろうか。
暗黒の闇と、眩しく輝く光の間を
磨りガラスのようなグラデーションで
淡く繋いでいることではないか
私はこの頃そんな気がしている。
山の頂上と谷底の関係ではなくて
なだらかに描かれるべきなのだ。
私の体はすっかり冷えていた。

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やさしい暴力

あらゆる暴力が世の中にはある。
そのようなことに人々は気づいておらず、
自分が傷ついて血を流しているのに
何も手当をしないで、足を引きずりながら
荒野を歩いていたりする。
殴られることだけが暴力ではない。
友達に無視されることも、
税金が上がることも、
寒いことも、仕事が辛いことも、
体が辛いことも、
病に蝕まれていることも、
年老いてゆくことも、
道が歩きにくいのも、
温かい食事にありつけないことも、
恋人が振り向かないのも、
肉親が死ぬのも、
テレビで犯罪や災害のニュースを見せられるのも、
やりたくない仕事をするのも、
聞きたくないことを聞くのも、
試合で負けるのも負かすのも、
みんな暴力である。
誰もが被害者であり、加害者である。
絶望の扉に表札はかかっていない。
人々はそうして傷ついている。
治療をしなければならない。
しかしまた、人は暴力によって変えられてゆく。
暴力でしか変わらない。
世界は暴力で溢れていて
私はそういったことを恐ろしいと思っている。
暴力からは遠ざかりたい。
障壁を乗り越えたと言っている人の言うことを
真に受けてはいけない。
彼はきっと乗り越えたのではなくて迂回したのだ。
けれど、どちらでも同じことである。
同じに見える。問題ない。
目についた汚れは早めに拭き取る必要がある。
暴力に成長しないうちに。
あなたはよく頑張っている。
あなたが一番それを知っている。
そして眠ろう。
深く潜ろう。
空っぽの夢を見よう。
それはもう夢ですらない。

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小さな地球儀を持っている。
くるくると回しながら何だか不思議な気持ちになる。
私はこんな玉の上に住んでいるのに、
地球の引力のせいで、
まるで平らなところに居るような気がしている。
年末から少しイタリアに行っていた。
「旅行は楽しかったですか」と人に聞かれるが、
何て答えたらいいのか、いつも迷う。
ひねくれているだけなのかもしれない。
しかし私はひとりでいる時に、
具体的に「楽しい」と思うのは何だか変だと
思っているようだ。
「楽しい」とは誰かと作る何かであるような気が
どうしてもするのだ。
そうやって言葉の意味の森をつまずきながら
歩くことが好きなのかもしれない。
私の場合「旅行」とは光を見にゆくことだと思う。
「観光」というのが人の歴史を味わうことだとすると
それにはあまり興味がない。
どんな街に行っても、そこは光の美術館だと思っている。
石と、壁と、水でできている街に行くと、
見たことのないような、様々な光が展示されている。
私はそれを、眺めている。
今回もたくさんの光を見た。
光は私の中に残り、様々な場面で薬のように役に立つ。
そうやって光を集めることが私にとっての旅だと思う。
それはカメラに似ている。

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暮れ

時間とは波のことであって
すなわちそれは光のことでもある。
わたしたちは波打ち際にいて
星を数えている。
バラバラに壊れたものを
もういちど拾い集めて
丁寧に繋ぎ合わせて
ほぼそっくりに戻そうとしている。
見かけは何も違わない。
しかし何かが違っている。
もう大切にしていた物とは
違うものになっている。
そのことに気づいてはいるが、
私は気づかないふりをしている。
私は思いたい。
かつてのそれと全く同じだと。
違ってしまったのは自分なのだと。
マイクロフォンは風に吹かれていて
あなたの歌は聞き取りづらい。
だから私は旅に出る支度をしている。
旅は人を変えるのさ
偉い先生が昔そう言った。
けれど私はそう思わない。
君は海原を見ていた。
カモメが飛来して低く舞っている。
彼はただ餌を探している。
世界のレイアウトの中で
何者でもないことを知って
絶望することがただ必要なことだろう。
誰もそれがいいことに値せず、
視覚の中にボタンが存在しないことを。
私は知っている。

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無言

寒さは
ストレスのひとつ。
ヤンガルバレスクの
サックスのように
どこまでも青く届いて
冷たく落ちてゆけば
いいのだけれど。
我々は生きなければならない。
それが使命というもの。
だから冬は
ストレスがひとつ多い。
浴槽に湯をためて
北欧のことを考えている。
閉じられてゆく門の前で
損なわれてゆく光を
憂へているけれど、
朝になればまた
開かれるのである。
問題は朝を待てるかどうか。
いつだって
立ちふさがっているものは
シンプルなもの。
雨に備えて
傘を鞄の中に入れておくこと。
丸腰では
戦えない。
わたしにまかせて。
そういう日が来ることを
憂へてはいけない。

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増減

冬が進むと青空が増える。
そして寒い日が増える。
色々なことが増えてゆくことに
私たちは敏感に反応するけれど、
どんどん減ってゆくことに対しては
無頓着なものである。
多くのことの総量は同じで
一方が増えれば一方が減る
そんなふうになっているのだと思うけれど。

往年のアーティストの
コンサートに行ってみると
彼女は膨大な曲の中から
色とりどりの作品を選び出して披露する。
ひとつひとつが
宝石のようにきらめいていて
心を動かすものだけれど
私は何だか醒めた感じで聴いてしまう。
カタログ的に思えたのだ。
並んだものが同じ方向を向いていない。
つまり物語が進行しない。
多様なオムニバスと言えばいいのか
意志を失っている。
そんな気がした。
人生のキャリアが進んで
持ち物が多くなってくると
そうして一方方向に進むための
力が損なわれるのかもしれない。
そもそも私はベストアルバムというものが
好きではなかった。
それは熱を持って進む方向が
損なわれているからだろうと思う。
どんなにたくさん持っていようとも、
ほんの少しだけ身につけて
外の世界と向き合う方がよいだろうと
私は思った。

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師走

人はとても細い糸で繋がっている。
十二月にもなると
そのようなことを考えるようになる。
風の冷たさが
想いの矢印を
内側に向けるのだろう。
寒い朝、
目覚まし時計は
けたたましく私のことを
眠りの底から引きずり出し、
私は忌々しく
スヌーズボタンを叩く。
しかしそもそもそれは
私が望んだことだったのだ。

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Satori

世界は黄色く
それは風によって移動する。
カサカサと音を立てて
道路に渦巻いている。
ずっと昔、「Satori」という名前の
スクリーンセーバーがあった。
サイケデリックな波紋が
画面の中をうごめいていた。
そんな感じを思い出した。
いつまでたっても信号は変わらず
私は
半分以上散ってしまった
イチョウの木を見上げていた。
それから信号は押しボタン式であることに気づいた。
なるほどボタンを押さなければ
この道を渡ることはできないのだ。
私はボタンを押す。
それはささやかなリクエストだ。
信号を変えるのではなく
変えて欲しいと誰かにリクエストをしている。
イチョウはいつから
こんなに黄色くなったのだろうか。
昔の黄色はこんなに明るい色ではなかった。
そんな気がするのだ。
私の罪は何ですか。
私は風に聞いてみる。
裁判官は罪を知らせないまま私を裁いた。
物語の脚本はまだ出来上がっていないのに。

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想像の先

しばらく前に那覇に行った。
沖縄は初めてだった。
当たり前だけれど空気の感触が
まったく違って
日本だけれど日本ではない気分になった。
どこか遠いアジアの国に来たみたいだった。
それはテレビで見たり、
話に聞いたりしていたのとは違うものだった。
想像していたのとはかけ離れていた。
「島」というこぢんまりした感じではなくて
もっと大きい強さを持ったものだった。
どんな場所のことも想像できない。
イタリアでもハワイでも
韓国でも北京でも
想像していた通りのところはなかった。
行って見なければ分からなかった。
想像っていったい何なのかと時々思う。
見たりしたりしていないことを
想像してもかまわないのだけれど、
それは現実にそこにあるものとは
随分かけ離れたものだと思う。
私はどこまでゆけるだろうか。

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