スポーツが怖い

「スポーツ」と言われるものを
見るのもするのも好きではなかった。
突然そうなったのではなく、幼い頃から
そうなので、なぜそうなのか考えることも
なかった。
あらゆることには訳があり、
それをよく考えることが、
よりよい生き方に繋がる。
そう思って考えてみると、
私はスポーツが怖いのだと思う。
選手の剥き出しの闘争心というか、
それは野生的で、時々雄叫びを上げたりする。
そこに私は共感を持つことができず、
ただ恐ろしいと思うだけなのだ。
そんな相撲取りや野球選手や
そういう人たちを見て、どうしてみんな
面白いと思うのだろうか。
「戦い」というのは全般的にそのような
性質を持っていて、私にとっては
その戦いぶりが恐怖でしかないのだ。
もしかしたら、それを「技術」として
見るのであれば、もう少し楽しめるのかも
しれないが、なかなか難しい。
そう考えると、私はあらゆることを
怖いか怖く無いかの天秤にかけているのだ。
「恐怖」というものに対する
徹底した拒否が幼い時に作られたのだと思う。
そういうことがこの頃分かったところである。

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西暦2025年

気づくと季節が進んでいる。
特別時間に余裕がないというわけではないが、
逆にあまり時間に囚われたくないと
私は思っているに違いない。
この頃、「私」というのは、こうやって意識を持って
脳で考えているものだけではなくて、
その他の細胞のことをでもあると
改めて考えるのである。
意識によって自由になることが、あまりにも少なく
私という体を会社のように考えるならば、
社長である私の言うことを聞く従業員はわずかである
ということである。
大部分の従業員は勝手に動いて自分の職務を遂行している。
社長の言うことを聞けと無理強いすると
雑な仕事をしたり、ストライキを起こしたりする。
普通の会社と違って、私と言う会社は
従業員が一人でも辞めると大ごとになり、
場合によっては倒産したりするので、
相当な気遣いを持って会社をやってゆかなければならず
それはもう大変な激務なのである。
しかし、逆の立場で考えるならば
「あなたが社長だと勘違いしているから迷惑なのだ」
そう従業員は言うだろう。

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天気図

秋雨前線が北から降りてくる。
緞帳のように降りて夏が幕となる。
そういうことを見せてくれるのが
天気図である。
小学生の頃、夜、気象通報を聞きながら
天気図を描く練習をしていた。
「御前崎、南東の風、風力三、晴れ、
 十一ミリバール、二十四度・・・」
この頃の天気予報では
天気図がほとんど表示されない。
アメダスのデータを元にした表示と
雨雲のレーダー情報と降水確率。
人々は答えを求めているのだろう。
天気図は理由を示しているが、
いまの世の中に理由は不要になっている。
気圧配置と風向きから空のことを
想像するのが好きだった。
結果と結論だけの世界には
物語がなくつまらないと私は思う。
そうだ、私が求めているのは物語である。

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長月

わたしの八月は終わって九月である。
台風十号はいつまでものろのろと
そこらを彷徨っていて、
はっきりと形が無くなってしまっても
まだ空の景色を変えてしまうような
力を持っている。
あちこちで空が落ちてきて
困っている人がたくさんいるようだ。
わたしは炭酸水を飲みながら
灼熱の日々をやり過ごしてきた。
「水をたくさん飲みなさい」と
医者は言うのだが、
わたしが水から陸に上がったのは
三億八千五百万年前だから
今はそれほど水を必要としてはいないのです
そんな事を言うわけにもいかず
どうしたものかと思っていたが、
炭酸水ならば飲めるということに気づいた。
それで炭酸水メーカーを買って、
水を炭酸水にしてごくごくと飲んでいる。
もともと炭酸は苦手で、
イタリアに旅行に行っても、水を頼むと
普通に炭酸水が出てくるので
「アクア!」と言わなければならなかった。
それがどうしたことか、この頃は
炭酸水が水よりも飲めるようになったようだ。
しかし炭酸自体に強くなったわけではなく、
ビールなんかはそんなに飲めないのだが、
それはまた別の話か。
とにかくソーダの泡のように夏が終わると
そういう話である。

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情報

ネットが無い頃はどうしていたのか、
もう思い出せないくらいになっている。
しかし、考えてみるとどの情報も
誰だか知らない人が何らかの意思を持って
ネットの川に流す餌のようなもので、
その人は大きな魚を釣り上げようと
しているのかもしれず、
そういう餌に引っかからない心掛けが
必要になるのだが、それは
なかなか困難でしかも面倒なことである。
情報は選択しましょう、と偉い人は言うが、
蛇口を捻るととめどもなく出てくる水が
飲んでよいところと、駄目なところがある
と言っているようなものではなかろうか。
このごろは新聞を読んでいる。
ネットを流れてくる「ニュース」の顔をした
ものよりも、こころに優しい気がする。

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葉月

命に関わる危険な暑さです、と
予報士は何度も画面の中で言っている。
エアコンの効いている室内から
外に出ることが
宇宙船の船外活動のようである。
それでも朝、ベランダん出ると
毎日少しづつ違っている。
そう、季節は動いているのである。
駐車場にシオカラトンボが飛んで
季節を巻き取っている。
八月はヨットが水面を行くように、
音もなくなめらかに
進んでゆくものなのである。
暑中お見舞い申し上げます、と
私は言うのである。
それがふさわしいと思えるのである。

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水な月

この頃季節は二週間から三週間ほど
先にずれているような気がする。
六月に入ると紫陽花が目に映る。
小さい頃、実家の庭先に紫陽花があって
紫陽花との距離が今より近かった。
ところで、水無月の「無」というのは
当て字であって、
「ない」という意味ではなく音だけを
示しているそうなので、
「水な月」ということのようだ。
さっそく紐のような前線の筋が
天気図に現れているのを眺めながら
雨の季節を味わっている。

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言葉の世界

同じ単語が同じものを
指しているかと、そうでもない。
それは方向を示しているだけだ。
人によって、その言葉を発した時に
想っていることが違うから
自分の想いを単語の連なりによって
表したとしても、それが他者に
自分の想っている通りに伝わるかというと
そんなことはなくて
必ず隔たりがある。
そういう当たり前のことが
わからない人はずっと昔から
ある程度いる。
自分の父親は国語の教師であったが、
それが分かっていなかった。
「それってどういう意味?」と
私は父親の言う言葉が指している
ものについて、
検証すべく、しつこく訊いたものだが、
最初は答えるが、繰り返すたびに
口は重くなり、やがて黙った。
そして最後には「うるさい」と言った。
そう、私はうるさいのであった。
繰り返し「どういう意味?」と訊くと
誰もがこの人ウザいという顔になったり、
はてはキレたりする。
賢明な人たちは、確認をしない。
言葉を発した人の意図など関係なく、
自分の思ったように受けとて処理する。
たとえそれが相手の想っているように
伝わっていなくとも気にしないのだ。
勝手な解釈が常である。
そういう人たちを目の当たりにした時、
私は「あぁそういうものか」と思った。
人の距離感というのはそのように
ある程度遠いものなのであるということを
理解したのである。
しかし、それだと人種や価値観が
異なる人とは全く情報の伝達ができないか
誤って伝わるのではないかと思う。
自分は相手の意図を正しく受け取りたいと
思うのだが、言葉による相互伝達は
なかなか難しいものだ。

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言葉の力

海外から伝わってくる多くのことには
たいてい間違った言葉がついている。
きっと、それらのことをよく理解していない
人がてきとーなイメージでつけた
カタカナ英語みたいな外来語がついている。
幼い頃から信頼できる人がおらず、
外からもたらされる言葉だけを頼りに
生きてきた人々にとって、それは
遥かな間違いの道を辿る入り口になる。
言葉から来るイメージで何かをしようと
試みても全てうまくいかないはずだ。
よく「フォローする」などと言うけれど、
実際どういう意味なのか人によって違う。
「助ける」とか「援助する」と思っている人
「つきあう」とか「見守る」と思っている人
勿論英語のfollowには助けるなんて意味は
ないので、外国人に「フォローしてくれて
ありがとう」などと言っても伝わらない。
外来語の動詞の意味は、どんな場合も
何となくしかわかっていないのだ。
曖昧にすることが得意な日本人だけど
私はこの頃、意味のよくわからない
カタカナ英語をなるべく使わないように
心がけている。
ギターの「カッティング」と日本で言われて
いる奏法は、海外では「ストラミング」と
言うらしい。それは「かきまぜる」という
意味で、誰もカッティングなどと言わない。
中学生の頃にそれが分かっていれば、
私はもっとギターが上手に弾けたのでは
ないだろうかと思う。
「カッティング」という言葉のイメージから
これは切るように弾くのだろうと思っていた。
「切る」のではなく「かきまぜる」のだと
最初から思っていれば、世界はもう少し
違ったものになったはずだ。
必然性のない言葉に惑わされないようにしたい。

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さくらさく

花の命は短いと言うが、
桜の花の命は特に短いのではないかと思う。
花は虫を呼び、命を繋ぐための
大切な催しのはずだけれど
いつだって
大切なことには時間がかけられない。
扉はいつも開いているわけではない。
ごく短い間の出会いが
未来を作ってゆくのだろう。
しかし、花は待っているように見えて
実は待ってはいないのだ。
待っているのは我々である。

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