五月になれば

五月が静かにやってきて
空と雲の関係が変わってくる。
風は南側のカーテンを揺らす。
もしもブラインドであったならば
風との関係性はもう少し金属的だったはずだ。
レースのカーテンは滑らかに波打って
何かを言いたげに見えるが、
私には聞き取るすべがない。
五月になれば街路樹も公園も
緑色に覆われる。
それは太陽を受け取るための
ミットのようなものだろう。
噴水の音がして
駆け出したくなるのが
五月だったかと思う。
自由とは様々なものが
様々な方向を向いていることを言う。
同じ方向を向いている時、
恣意的でなければ、それも自由の結果
と言ってもいいかもしれないが、
ひとはそんなに合うものではないはずだと
私の短いような長いような経験から思う。
誰かが遠くでホルンを吹いている。
それは波となって
五月を駆け、私に届く。
私はただ耳を澄ましてそれを聴いている。
五月になれば
どんなものも形を変えて
どこか遠くの空を飛んでいる。

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フィクション

たとえばある日、巨大な隕石が
地球に向かっていることが突然判明する。
そのようなものが地球に衝突したなら
人類は消滅するであろうと科学者がテレビで言う。
あらゆる人々に終末がやってきて
世界は憂に包まれる。
そしてむき出しの暴力や愛の渦が溢れ出す。
そんな設定の映画や小説はいくらでもあって
私たちはそれを娯楽として見たり読んだりしてきた。
実際には起こり得ないと思えることを
想像して作品として築き上げ
楽しんできたのだ。
しかし、このごろ「実際には起こり得ない」と
どんなことも思えなくなってしまって、
以前のように楽しめない。
「これはフィクションです」とテレビドラマの
最後に表示するようになったのは
いつ頃だったか。
「1999年に世界は消滅する」
幼い頃、兄が自慢げにノストラダムスの預言を語った時、
私は恐怖の海に溺れそうになった。
私にとってはまだ「起こり得ない」と思えることが
何もなかった。
幼さというのは、あらゆる可能性を信じている。
六歳年上の兄はすでに、「ありえない」と
思うことに慣れていて、ありえない物入れを持っていた。
私は、大人になってもなお、
「ありえない」と思う力を十分に身につけられなかった。
それは逆に言えば「フィクション」を
楽しく作り出すことができないということでもある。
私にとっての「フィクション」は
世界がとても幸福な人々で溢れていて、
自分にも人にもとても優しく
安らいだ日々を人の永遠に近くおくり続ける
というような話だろうか。

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物語

桜が咲くところを見て、
桜が咲いているところを見て、
桜が散るところを見る。
それはひとつの物語である。
物語は
こころに何かを残す。
そのようにして春は
意味をもつことになる。
一部始終を
見ていることである。

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四月

今年は四月が来ないような気がしていた。
私の知っている四月ではない。
そんな気がする。
誰か知らない四月がそこにいて
私はどう接したらいいのか分からない。
近しく感じていたのは
たぶん私だけで
あなたはそうでもなかったのでしょう。
ただの偶然が私たちを近づけただけで
組み上げられたこの世界のことを
私はよく理解しているわけではなくて、
実のところずっと入り口に立ったまま
暗い部屋の中を見回している。
いつまで経っても目は慣れず、
耳を澄ましても何も聞こえない。
そして何の匂いもしない。
寒すぎるのは太陽のせいではないでしょう。
何かほんの少し違うことが
たくさん積み重なって
大きな流れとなって風向きを変えている。
そしてそういったことは、
私にはどうしようもないこと。
ただ時空の問題なのだ。
どの扉を開いてみても同じで
結局なにも見えない。
過去は記憶され、
未来は過去に基づいて想像される。
そういったことを手紙にしたためて
ポストに投函したいけれど、
そもそもポストなど
存在しない世界なのではなかったか。
本棚の上から
いつだって見下ろしているような存在に
なればよかった。
タイヤに空気をたくさん入れて
接地面積を小さくすることで
軽く、そして速く走ることができるのだと
誰もが知っているが
私の空気入れはどこかに穴が空いていて
踏み込む度にしゅうしゅうと音をたてて
漏れてしまう。
空を見上げるときっと一番星が輝いていて
その距離を私は胸にしまうだろう。

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想像力の信憑性

だいたい一本に一花か二花
桜が咲いている。
安定しないのが春というものだとしても
雨粒は落下し
冷たく黒く沈んだ空
煙突の煙は南に長くたなびいている。
地球はターンテーブルのように回転し
私たちのうたを再生する。
様々な物語が氷像のように立ち上がり
そしてとけて崩れてゆく。
違う時空を飛ぶ鳥は
出会うことがなく
ただ風を切ってどこまでも飛ぶ。

この頃のものはつまらなくて
すっかり読んだり聴いたり
しなくなってしまいました。
黒木さんはそう言った。
つまらなくないものは、
どういうものなのですか。
私は訊いてみたが
答えは酒にとけて聞こえなかった。
ものごとの真理というものに
直接触れることはできないから
私たちは想像力をもって
それを解釈する。
どんな場所に行っても、
想像した通りのところは
どこにもなかった。
それくらい想像力というものは
あてにならないものだが、
時々自分にとってかけがえもなく
美しいものを取り出せることがある。
そういう時期がある。
人はそれを「体験」あるいは「経験」として
記憶する。
かつては、風化した石ころでさえ
とても美しい芸術として解釈できたとしても、
歳をとると
それが本当にただの石ころになったりする。
たとえ同じものを見ても
最近のものはつまらない、となる。
そして過去に美しいものが引き出せた頃の
自分の想像力の「体験」の記憶を取り出し
昔のものは良かった、などと言う。
それは言ってみれば骨粗鬆症みたいなもので、
貧弱になってしまった想像力を
昔と同じだと思い込んで美化している
老害という名の病気である。
想像力に栄養と酸素を送る必要がある。
今日を美しく解釈するために。

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春はどこに来るのか

去年の春を覚えているか
というとちょっと怪しい。
私は去年の春に何を想い何をしていたのか
全然思い出せない。
存在というのは希薄なものだ。
宇宙の暗闇に
黒い点を打ったように存在し、
何とも関連を持っていなければ
そこに物語は存在せず、
ただの黒い点として完結する。
楽しいことも、悲しいこともなく
星は回っており、
私もまた回っている。
ただ食べたり飲んだりしていただけで、
生命の継承については
まったく加担していないが
ただ金銭をパスするという役目のみで
今日まで存在している。
自分の存在を肯定するとすれば、
その程度だろう。
ところで重さとは
重力のことである。
重力は常に変化しているので、
重さもまた変化しているのだそうだ。
震災後には地球の中身のバランスが
少し変わったせいで
重さも変わったのだそうだ。
魂には重さがあるのだと聞いた。
そうだとすれば、魂もまた星に縛られていて、
その重さも変わったのだろうか。
春はまもなくおとずれるだろう。
どんな人にも。

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寿命

十年が過ぎると
たいがいのものは壊れる。
機械は動かなくなる。
そういうふうになっている。
たぶんそれは、作る側が
十年ももてばいいだろうと
思って作っているからだろう。
もちろんそれを構成する部品の
供給期間を設ける上で
その程度が妥当だということに
なっているのだろう。
先日は給湯装置が壊れた。
風呂に湯をためることができなくなった。
蛇口を開けると
湯が出るのは、その向こう側に
給湯装置があるからだと
知ってはいたけれど、
そういうことを日頃は
あまり感じないで生きている。
壊れなければ
その存在が濃くならない。
当たり前のように問題なくあることは
関係の糸を見えにくくする。
人は呑気なのだ。
生きることは取り返しがつかないことの
繰り返しなのだろう。
ライン引きで引かれる白い線の上を
綱渡りのように歩いてゆく。

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弥生

三月になった。
月末には桜が咲くのだと
気象予報士は
相変わらずテレビジョンの
四角い枠の中で言っている。
私も
そうだ桜が咲くのだろう
なにせ三月だから
そう思っている。
当たり前のことを
権威のバトンを持つ人が言うと
何かとても新しい発見のように
聞こえる。
テレビジョンは権威のバトンを
持っている。
私はテレビジョンを閉じて
湯の温度を測り
丁寧に珈琲をいれる。
このところは八十四度で
珈琲をいれることにしている。
私は今のところ私のためだけに
生きている。
イースターブレンドという
珈琲なのだそうだ。
イースターは春分の後の
満月の日なのだそうだから、
その頃にはもう桜が散っているだろう。
どんなことも
はかないゲームである。

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淡い日々

季節の変わり目というのは
実のところ大変なせめぎ合いで
冷たいものと暖かいものとの
戦いなのだけれど、
私はなぜかそれを淡く感じ取る。
気圧の変化が
私を眠りに誘うからかもしれない。
春先には夢をたくさん見る。
ディテールは短い時間で損なわれるけれど
ぼんやりと
何か本質への糸口のようなものが残っていて、
そのことをずっと想っている。
私はずいぶん遠慮がちに
人生を送ってきたつもりだったが、
どんな時もそれが裏目に出て
私を行き止まりの道に誘い込んだ。
しかし、それが紛れもない私なのである。
そして私にしか見えないものがある
ということなのである。
今日もいつものように暮れて行き、
私はソファーに座って
ステレオセットでトランペットを聴いている。

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ほんとうのこと

「ほんとう」はいつか嘘になる。
そのことを私たちは知ってしまった。
だから私たちは
「ほんとう」を求める人になった。
あの日を境に
新聞を取るのをやめた。
テレビの言うことを信用しなくなった。
そして外に出るようになった。
外に出る人は
「ほんとう」を探す人たちだろう。
自分の目で
自分の耳で
「ほんとう」を確かめようとする。
フェスや
イベントや
ライブ会場で
直接感じられる「ほんとう」を受け取ろうとする。
「ほんとう」を歌う
あの人から受け取ろうとする。
信じたいものを信じたい。
テレビや新聞やネットで損なわれた
「ほんとう」を探しにゆく。
私たちは「ほんとう」を渇望している。
でも、追いかけて捕まえてみると
振り返った瞬間に「うそ」になっている。
嘘の顔をしている。
それを目の当たりにする。
それは鮮やかな手品のよう。
ここにも「ほんとう」はなかった。
そしてまた旅に出る。
私たちはあてどない旅に出ている。

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