ヴェニス

ヴェネツィアに行っていた。
夏のヴェネツィアのことを知りたかった。
イメージすることは
どんな場合も経験にかなわない。
想像力がうまく働くのは
しっかりと経験を持っていることが必要なのだ。
ゲットーの広場に風が吹いていた。
木々で蝉が鳴いていた。
日本の蝉とは違う鳴き方で、
まるでそろばんを弾くように
ギシギシギシギシと低い声で鳴いていた。
夏がぐるぐると回転して
空が青かった。
太陽は高いところから光を注ぐので、
壁の色が冬に見る色とは変わって見えた。
街の色を
私は見てみてまわった。
暑さは日本の方が暑いくらいだったけれど、
それでも石畳は焼けていて
私は時々立ち止まって
ジェラートを食べなければならなかった。
観光客は思ったより少なく、
いつもは長蛇の列ができている
ヴァポレットのチケット売り場も
サンマルコ寺院の鐘楼も
人はまばらだった。
ヨーロッパの人々のバカンスというのは
長期滞在できるところに
行くのかもしれないと思った。
定刻を知らせる遠い鐘の音が
蝉の声に混じって
私に届いた。

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夏のこと

いつの間にか変わっているのが
季節というものだとしたら
それは季節のことを
あまり見ておらず
いつも考えていないということだと思う。
想いを費やしていないことは
「いつの間にか」変わる。
深く物事を見て
いつも考えるようにすると
そういうことはないのだと思う。
わたしは
ぼんやりと生きることによって
ある程度
自分を守って来たのだと思うから
さてどうしたものか。
七月が終わろうとしている。
時々雷が鳴って
激しく雨が落ちてくる。
求めるものよりも
求められるものの方が
わたしを支えている。
そういうことについて
何だか不思議に感じるけれど
外側から見えるわたしと
わたしの内側から見えているものが
大きく違うのだろうと思う。
その差異を
もう少し縮められないものだろうか
と、わたしは思う。
しばらくルーチンを停止して
その先のことを考えよう。

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闇の光

東の空には丸く大きく見える月が
西の空には遠く花火が上がっていた。
どん、どん、と低い音が
ずいぶん遅れて私に届いた。
ベランダにはぬるい風が吹いていて、
今暮れたばかりの空の端に
まだいくらかの光が残っている。
夏なんだと思った。
その実感がまだなくて、
どんな心構えもないのだけれど、
考えてみると私の生きてきた道の上で
心構えがあったことなど何もなかった。
それは勿論いつもぼんやりとして
前さえも見ていないからだということを
知ってはいる。
何もかもが手遅れになることを
とても残念に思う一方で、
それがたぶん私というもので、
そのおかげでとても困難な日常の痛みを
和らげてきたのだと思う。
私は花火が終わってしまうまえに、
ベランダから部屋に戻って
しっかりと窓を閉めた。

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文月二千十七

七月にもなると
世間は七夕などと言って
願い事を短冊に書いて吊るすのだろう。
私には家族というものがないから、
ささやかな願い事を
ひとに見せる機会もないだろう。
そういえば
世界はいつからこんなに速くなったのだろう。
台風3号は回る。
コリオリの力を見せつけて。
幼い頃は嫌なことばかりだったから、
時間がなかなか進まなくて
早送りボタンを押し込みたいくらいだった。
そういう願いが強すぎたのか、
ボタンを押し込んだまま
壊れてしまったようだ。
私に今必要なのはせめて一時停止ボタンだろう。
まさか巻き戻しなんかできないし。
でも停止ボタンを押しそうで怖いこともある。
たくさん雨が降っている。
風だって吹いている。
雷も暗闇にときどき光を放っている。
どんどんやればいいさ。
相変わらず私には物語が不足している。

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雨季

六月になると
空から雨が降り続き
世界が水色になってゆくだろう。
そう思っていたが
今年の六月は少しイメージが違う。
世界はエンターテイメントではないから
思った通りに物語は進まない。
魅せ場は適切に配置されてはいない。
午睡の中で私は
蛙の鳴き声を聴いた。
見渡す限りの水田に
水がはられて
若い稲が育つ六月の夜
おびただしい蛙が鳴いている。
それは通奏低音のように夜を支え
私を季節とともに運んでゆく。
それは夢であった。
しかし、かつて私は実際にその声を聴いた。
確かなこともまた夢である。
どんなことも夢になるのだろう。
同じことだ。
そんな気がしている。

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古い空気

七十年代のロックには
どこかに影みたいなものがある。
音楽は時代を流し絵みたいに写し取るから
たぶんそういう時代だったのだろう。
私はそういう薄暗さが好きで
七十年代のロックのアルバムを買って来ては
それを取り出している。
それは懐かしさではない。
聴いたことのない七十年代の曲も沢山ある。
それは希望や諦め光や影のバランスなのだ。
古いウイスキーを飲むようなこと。
もしも今同じことをしても
それは2017年の音になる。
いいとか悪いとかそういうことではなくて
その時代の空気というのは
その時代にしか封入できない。
それは何だかとても不思議なことだけれど、
技術や想いや色々なことが
常に変化しながら流れているということだと思う。

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のおと

この頃、とても長い夢を見る。
夢の中で何日も何ヶ月も過ごしている。
そしてそこでもやはり
不安定な生活を送っている。
日々色々な問題が起こって
それをこなしたり、やり過ごしたりして
何とか毎日を送っている。
たとえ夢の中でも
私は私でしかないのだということを
十分に体験して目が覚める。
コミットメントから逃れられない。
何かしらの形を保つというのは
そういうことかもしれない。

家に帰るとロックがある。
ただそれだけが救いであった頃のことを
思い出す。
今はいったい何が救いなのだろうか。
たくさんの物に囲まれているけれど、
私に何があるのだろう。
意味みたいなもの。

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欠点を直さない

いつからが夏だろうか
と考えたりするけれど、
季節に区切りなどないのだった。
自然のものは何でも区切られてはおらず、
はっきり区切りたいのが人というものだ。
緩やかに変化することを
受け入れることから始めると
いいのだと思う。

どうして忘れちゃうの
この前、さんざん説明したじゃないか
と会社の同僚に言いかけて
気づいた。
覚えない、忘れる
というのは彼の欠点であるように見えるが、
彼はそうして自分を守ってきたのだ。
人の欠点は、その人を守る手段なのである。
単純にその欠点を修正すると、
彼は自分を守ることができなくなり
破損してしまうのである。
彼は覚えない、忘れることによって
この世界に生きることを
何とか続けてきたのである。
人の欠点を直すのならば、
その人を守るための違う手段を
考えなければならない。
そんなことを考えるよりもきっと
欠点を迂回して、何かを実現するように
工夫した方が早い。
修正すべきなのは彼ではなく私の方だった。
じゃあ作業をレシピ化して
ストックしておくようにしようか。
中身はなるべく抽象化してね。
私はそう言った。
工夫しよう私。

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ジャスミン

夜に
ジャスミン流れていた。
よく見ると
生垣に白い花たくさん咲いていた。
その香りは
幼い頃に忍び込んだ
製茶工場の暗がり思い出させる。
蒸した新茶の葉
ベルトコンベアー昇って行く。
青い香り時空を越えて
過去の扉開けるのだった。
五月の
雨が降るまでほんの短い間
そのトンネル開いている。
どこまで行っても
構わないと誰かが言う。
どこにも行けやしないさ
私の中、私が言う。

気づいたら知り合いは
金を払う場所か、
金を稼ぐ場所でしか
会わない会えない人ばかりに
なっていた。
私は人間関係、金で維持している。
別にそれが悪いわけではなく
生まれ育った場所ではないところで
家族持たず
恋人持たず
独り暮らす年寄りにとって
よくあることなのだろう。
私が病気になったり
仕事を辞めたりして、
稼げなくなった時、
人間関係はあっという間に
損なわれるであろう。
「ともだち」とは何であったか
私はすでに忘れつつあるようだ。

物語の問題を解決するのは
物語しかないのだと
誰かが言っていた。
今夜北風吹いている。

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彼女は不機嫌そうに見えた。
電車の向かいの席に座って、
眉間に皺を寄せ、右斜め上を睨んでいた。
右斜め上には何があるのかというと
特に睨みつけるようなものは何もなかった。
真ん中で分けたストレートの髪は
肩よりも少し長いくらいだった。
たぶん二十代の前半くらい。
紺色のニューバランスのシューズ、
クリーム色のパンツに黒のTシャツ、
紺色のアウター、そして緑色の鞄を抱えていた。
限りなく普通に見えて、
何かが妙だった。
まず靴が汚れていた。
他には汚れひとつなく、髪も光を放っており
化粧にも乱れがなかったが、
靴はまるで沼地を歩いたように泥だらけだった。
泥はすでに乾いて白くこびりついていた。
そして私が電車に乗り込んでから
四つ先の駅で降りるまで、
彼女は同じ姿勢で眉間に皺を寄せ
ずっと右斜め上を睨んでいた。
まるで何かのモデルのように動かなかった。
電車を降りても
彼女の姿が残像のように
私の中に残った。

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