タスクマネージメント

知り合いに真面目な小説を書く人がいる。
彼女の書く小説は働く女性の小説で、
主人公が行うタスクが詳細に書かれている。
仕事だけではなく、私生活でおこなう
家事や介護や家族やその他の
色々な作業ややり取りについて細かく記述され、
そして個々についての主人公の見解も書かれている。
たぶん彼女自身が、そうとう仕事ができる
人なんだろうと思う。
「仕事ができる」とはやるべきこと、
つまり「タスク」を見出しリスト化し
優先度を立てて着実に処理することだからである。
しかし、私は彼女の小説を読むと
どうにもくたびれた気持ちになる。
日頃、気にも止めないで行っているような
「タスク」が全て書いてあり、
そうか、私たちは日々こんなに沢山のことを
やっているし、やらなければならないんだと思うと
なんだかそれだけでくたびれてしまって、
色々なことが嫌になってしまうのだ。
彼女の小説が悪いというわけでは決してないが、
私はタスク化しない人間なのだということが
よく分かってしまうのだ。
私にとって小説は、そして日々の生活は、そのような
「仕事」の延長線上にあるものではないようだ。
だからうまくいかない事が多いけれど
それでもなんとか楽しみや新しいことを
見つけ出せるのだろうと思う。

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愛着

パソコンの寿命はどのくらいだろう。
ずっと昔は2年くらいだと思っていたが、
この頃は性能も行き着いた感もあって
何か新しいことをしようと思わなければ
ずいぶんと長く持つようになった。

つい最近まで使っていたiMacは
10年前に買ったものだった。
新しい版のOSではサポートされない機種に
なってしまい、古いOSを使っていたが
Webを見たり、動画サイトを見たり
サブスクで音楽を聴いたりするのに
不自由はなかった。
しかし、パソコンにとっての10年は
人間で言うとたぶん80歳を超えた
感じなのではないかと思うと
少し不安になったのもあって
新しいMacbook Airを買った。

自分は新し物好きだったような気がするが、
意外と小心者なので大物はあまり買い替えない。
前の車は17年乗ったし、
今の洗濯機は12年目である。

新しいmacにディスクの中身を移し替えて
一旦電源を落として
再起動したら、彼はもう起動しなかった。
しんと静かで
暗い画面のままだった。
もしかして私が新しいのを買うまで
彼はぎりぎりのところで頑張って
くれていたのだろうか。
そう思うと古いiMacが愛しくなった。
愛しさとか思いやりというのは
実はタイミングとか「間」の取り方
なのかもしれない。

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地上の歩き方

正しい歩き方とは
まず、かかとから地面に着地し、
その後、小指に向けて体重を移動し
そして親指から抜ける
というのを繰り返すことである。
地面を掻くようにして前に進む。
私がそれを知ったのは
つい最近のことだった。
それまでは足の裏全体か
前の方で着地していた。
歩くとすぐに疲れて
これは体力が無いせいだと
思い込んでいた。
しかしその時ふと「もしかして」
これは歩き方が悪いのかも
と思ってネットで検索すると
当たり前のように
正しいウォーキングの方法
みたいなページが沢山ヒットした。
どんなことも
まず基本的なことを疑わなければ
たとえそれが常識的なことでも
目にすることができない。
歩き方を変えてみると
ずいぶんと楽になって
歩くことが楽しくなった。

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できるできない

楽器でもスポーツでも料理でも
どんなことも上手くできる人は
最初からできているのだと
思えるのだけれど、それは
体を動かす方法が
最初から正しかったのだと思う。

弾く、叩く。
歩く、走る、蹴る。
見る、読む、聞く、話す。
切る、混ぜる、練る。
軽く、激しく。
そういう言葉が実際どういう
動作なのか、普通の場合は
あまり考えない。
というか、そんなこと
分かりきっていると思って、
その先にあることを
追求しようとするけれど、
そうではないのだ。
人の中にはその人なりの
動作のイメージがあるが、
それが正しくない場合が多い。
思い込んでいるから
変えられない。

基本的な動作について
間違っていることを疑い、
それを正しいものに
変えていかなければ
扉は開かない。

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ブログ

かつて「ブログ」というものがあった。
この国において
「ブログ」というのは読むものというより
むしろ書くもので、それは日記のようなものだった。
著名人が書くものを
そのファンが集中的に読むということはあったにせよ
大部分は名も知れぬ人々が書く日記で
そんなものを読むのは一握りの友人にすぎなかった。
しかしそれでよかったのだ。
「公開している」という緊張感のもとで
日記を書くということが必要なのだ。
読むことと同じくらい書くことが大切なのである。
近年は「SNS」というものが流行っていて
これは、主に読ませることを生業とする業者によって
運営されているので、書くものというより読むものだ。
人々の呟きの間に宣伝や広告をサンドイッチにして
読者に食わせ、金を稼ぐためのものである。
そして信じられないことに、そこに公共のサービスも
参加しているのだから、ますます読まざるを得なくなり
機械仕掛けのオイルのように金が回る。
そして、自分の理想を押し付けようとする人も
その中で言葉を放ち支持者を増やす。
そしてこの頃はさらにインパクトの強い
短い動画をタイムラインに流して
読むよりも見せるという方向に流れている。
インパクトの強いものは、選択して見たり読んだりしないと
心と体によくないことがわかっているが、
お構いなしに流れてきてもはや選択などできない。
原始時代の神のように
人々はそれを信じ、渇望し、熱狂する。
私はそれを憂いているが、どうすることもできない。
過渡期なのだと思うことが救いになるだろうか。

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言語

言葉は便利だからできたのだろう。
しかし、伝達の性能としては
細い細い一本の道でしかないと私は思う。
それが、通信、というものである。
たとえば、ファイルをインターネットで送るのであれば、
ファイルは紐のように分割されて、少しづつ
細い道を通して送られ、受信先で復元される。
一見これはとても普通のことに見えるけれど
一度ばらばらにしてからでないと送ることができず、
そっくり元どおりに復元できなければならない。
しかも、送っているのは言葉である。
人が話そうと思えば、話せる数字の言葉で送られている。
単純だけど不自由だなと思う。
そこにどうしても「時間」というものが必要になるから。
あらゆる翻訳を行う必要がなければ、
一瞬のうちに想いは伝達できるのに。

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記憶の雨

思い起こしてみると
記憶に残っている風景は
いつも雨が降っている。
茶色く濁った川が
ごうごうと流れていて
私は傘を差している。
晴れた日の記憶が
ドーナツのわっかのように
抜け落ちている。
トタン屋根に落ちる雨は
歌をうたっている。
そして蛙が待ち構えている。
季節の匂いが立ち込めている。
そういえばこの頃の小学生は
黄色い傘を差さないのだろうか。
堤防の上を
一列にゆく黄色い傘を
もう見ることはないだろう。

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借用

等圧線のドレープが見えてくると
雨の季節が近づいていることがわかる。
そうして進んでゆくように見えて
実は戻ってゆくのかもしれない。
私たちは生まれてから
たくさんのものを手に入れるが、
やがてたくさんのものを返してゆく。
いっぺんに返すのか
それとも少しずつ返すのか
それだけの違いで、返すことに変わりはない。
どんなものも
どんなことも
借り物なのだ。
大切に使って、大切に返そうではないか。
「わたしのもの」なんて、
ひとつもないことに気付ければいい。
少し風がでてきたようだ。
レースのカーテン越しに洗濯物が揺れているのが見える。


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想像力

先天的に才能を持っているひとの訓練方法は
万人に適用できるものではない。
つまり、ただひたすら同じことを繰り返しても
たいして能力は向上しないのではないかと思う。
ひたすら素振りを1万回繰り返しても凡人にホームランは打てない。
「頑張る」ということは、そんなに間違っていないが、
頑張り方が問題なのだと思う。
音楽でも料理でも文章でもそうだけど、
うまくいったときの形を
何度も何度も想像しながら、何が足りないかを
考えることだと思う。
後天的に能力を身に着けるにはそれが必要なのだろう。

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二〇一八

ずいぶんと
流れたのは
川なのか
時間なのか
わたしには分からないけれど、
決して遠くまできたわけではなくて
川に流れる水が
いつも同じ水に見えるように
何も変わっていないように見えて
私は川の淵に立って
流れてゆくものを眺めている。
右足と
左足を
交互に踏み出して
突端までゆくことができるが、
それは無意識に行われる。
意思のみが尊重されるべきで、
どのように実現するかについては
無意識でなければ
ほんとうの明日は
来ないのではないだろうかと
思っている。

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