植物図鑑

文字をするすると読んで、
書かれていることから自由に想像し、
想いを巡らせることができるようになる前に
図鑑というものに出会った。
たぶん年上の兄がいたから、そういうものが
家にあったということだと思うが、
当時は大全集的な百科事典のセットを
訪問販売する業者が多かったので、
断ることが苦手な親がうっかり買ってしまい、
棚の大部分が分厚いカバーのついた
百科事典でうまっていた。
そしてその百科事典は誰にも
読まれることがなかった。
その頃の私は長い長い時間の糸を
どのように巻き取るかということが
一日の課題だったので、端からその
百科事典を開いた。
読めないところは飛ばして、絵だけ見た。
この世界のこと、私が
知りたいことはだいたい書いてあったから
それはとても助かった。
しかし、植物のことが足りなかった。
私は人間や動物よりも植物が好きだったのだ。
植物は動かないところがよかった。
会いたい時に植物が生えている場所に行けば
いつでも会えたし、同じ場所で育つから
毎日成長を見られるし、何より彼らは
私に付き纏わない。
そんな彼らのことをもっと知りたかったが、
百科事典は薄く広い知識しか
書かれていなかった。
私は街に出た時、祖母と本屋に行き、
植物図鑑をねだって買ってもらった。
たしか、学研だか小学館だかの
そんなに分厚くないけれど、絵がたくさん
書かれていたやつだったと思う。
その植物図鑑が衝撃だった。
草むらはいつまでも草むらではない
ということが丁寧に描いてあった。
更地になったところに、どこからか
草の種がもたらされて草が生えるが、
そのうちにセイタカアワダチソウのような
毒を持った草が世界を取り、しかし彼らも
そのうちに、もっと背が高く力の強い
多年草の草に取って代わられ、
どんどん移り変わるというのである。
やがて木が生え、最初は陽当たりを好む
松や白樺の陽樹が育つが、やがて
陽当たりがなくても育つブナやカシなどの
陰樹に入れ替わるのだという。
草が生え、育ち、種ができて落ち、
そこからまた新しい芽が出て…
ということが永遠に続くと思っていた
私にとって、それはとても
ショックなことだった。
草木は動かないところがよかったのに
動き、遷移し、淘汰される。
永遠など存在しない。
そして、そこに「物語」が生まれる。
そういうことを植物図鑑は私に注ぎ込んだ。
あの図鑑はどこにいっただろう。
どんなものも、淘汰され、遷移し、
いつのまにか消えてなくなる。
苦しみには希望を、喜びには絶望を与え、
世界の物語は紡がれるのである。

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水を溜めない

貯水タンクをやめたのだそうだ。
水道管から直接各戸に給水するようにしたと
掲示板に貼ってあった。
上水の水圧では三階までしか上がらないから、
どこかで加圧して、
私の蛇口まで来ているのだろう。
給水が変わってから、湯船で
あの鉄錆の匂いを吸い込むことがなくなった。
あれは貯水タンクの中で
色々なものが溶けこんだ匂いだったのだ。
ウォータータンクを
見るのも撮るのも好きだけれど、
味わいたくはないものだと思った。
私たちの六十パーセントは水だと言う。
そういう意味では、この蛇口から
出てくるものは「わたし」である。
もしかしたら、かつて誰かだったものである。
巡っているのだ。
地球というのは私のことでもあった。
水はどこかに留まらないのが素性だ。
常に流れ、常に消費され、常に揮発し、
常に巡っている。
そもそも溜めるという行為が
間違っていたのだ。
正しい水のあり方に戻ったのだと思う。

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豆を撒く

実家は寺だったので、
子供の頃
節分には祖父が経をあげ豆を撒いた。
大きな木の枡に山盛りの
焼いた豆が盛られていて
それをまるで相撲取りが塩を撒くように
土間や座敷に向かって撒く。
鬼は外、福は内。
鬼は外、福は内。
祖父は躊躇しない人だった。
鬼は外、福は内。
鬼は外、福は内。
何度も繰り返すそのフレーズが
心を高揚させてゆくのがわかった。
子供だったからかどうかわからない。
それは今思えばヒップホップみたいで、
言葉が人に力を与えていた。
経も歌も掛け声もヒップホップも同じで
人の中にある力を呼び起こす。
やがて私は大人になり祖父は死んだ。
豆蒔きは親父の代になり、
それから親父が死んで兄の代になった。
でも彼らは躊躇している。
豆はちょっぴりしか撒かれない。
後の掃除が大変だからである。
もったいない、と思っているかもしれない。
言葉は消えた。
たぶんそれでよかった。
祖父の言葉は受け継がれず
私の中にしまわれている。
二月が進んでゆく。
今日はよく晴れて、
日差しが私に届いている。

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物を大切にする

日本人は物に魂が宿ると思っている。
つまり、物は物ではなく魂なのである。
だからそれをぞんざいに扱うわけにいかない。
そういう価値観を持っていると思う。
それが物を大切にする理由である。
「品質」というのは魂を作り込むことで
そこが日本製であることの重要性なのだ。

この頃うちの洗濯機が暴れるようになった。
脱水の時、ガタンゴトンと
ありえないくらい大きな音がする。
メーカーに連絡して修理に来てもらった。
「ドラムを吊っているバネを止める受けが
 割れてしまっていますね」
サービスマンはそう言ったが続けて
「残念ながらこの部品はもうないので
 この洗濯機は修理ができません」
そう言った。
洗濯機の部品保有期間というのは
製造終了後、六年なんだそうだ。
「この洗濯機は2011年製ですからね…」
と彼は何とかならないかと願う私に
当たり前のことを言っているように言う。
結局、一万円払って診てもらっただけで、
彼は元通りにカバーを閉じて帰っていった。
小さなプラスチックのフックがない
という理由で、私はこの魂を葬らなければ
ならないという。
洗濯機がかわいそうだ、と私は思う。
新しい物を作り、たくさん売り続けなければ
企業が存続できないということの代償に
物の命は短命に制御されている。
せめて、食べたらなくなるお菓子のように
使う度に減ってゆけばいいのに
そう私は思った。

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音色

歌というのは声なんです。
逆に言うと声というのはすなわち歌です。
喉の奥にある帯が振動して
空気を震わせるそれが
私に届くとき
それは「歌」になる。
人が人を好きになるわけは
容姿でも性格でも歌が上手いからでもない。
それは声の音色である。
音の波が好みにマッチするのである。
音声認識である。
音色認識である。
声には形があり、結合のしやすさがある。
ずっと前に死んだ人の容姿は忘れても
その声を覚えている。
人を見るのではなくて
人を聴いていることに注意して
耳を澄まそう。

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筋膜

「体全体が薄いサランラップみたいな膜で
 覆われていると想像してみてください」
 そう整体師は言った。
 サランラップ?
「それで、それが部分的に癒着して
 くっついちゃったりすると、他のところを
 動かそうとしてもうまく動かなくて、
 無理して動かすと故障する原因に
 なるんですよ」
「へぇ」
「そして体液の循環が滞るので
 むくんだりします」
 整体師は足が痛むといえば、腰や肩を
 ほぐし、肩や首が凝ってというと
 足や腰をほぐした。
 体はどこかの部分が局所的に
 悪くなるのではなくて
 原因は遠く離れたところにあるのだという。
「剥がすんです」
 整体師は身体中くまなくゆるめてゆく。
 しかしどんなことも
 そうかもしれないと私は思う。
 全然関係のないどこかの誰かの
 小さな問題が
 覆われた膜を少しずつ引っ張って
 世の中のどうしようもない問題に発展するのだ。
 どんなことも全て繋がっている。
 私やあなたが健やかに今日を過ごすことが
 世界のためになる。

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アンビエント

坂本龍一が弱っているらしい。
「12」という新譜を買った。
内容はアンビエントミュージックである。
私にはそう聴こえた。
アンビエントミュージックというのは
「環境音楽」と翻訳されることがあるが、
私的には少しニュアンスが違うと思う。
「音」と「音楽」の波打ち際にあるもの
それがアンビエントミュージックではないか。
ブライアン・イーノやハロルドバッドの
世界がその道筋を作っていると思う。
とても草臥れている時、
人の中には音楽は浸透しない。
「音楽で元気づける」とよく言うけれど、
音楽で元気づけられる人の中には
まだ元気つまり「気」の「元」が残っている。
「元」が残っていない人、
過度に弱っている人は元気づけられない。
自分も以前、アンビエントミュージックしか
聴くことができない時期があった。
アンビエントミュージックは
頑張れとか元気出せとか
余計なことを言わず、ただ寄り添う。
「12」の教授の気持ちが
私にはよく分かる気がした。

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出汁

「出汁は何で取ってる?」
 ずっと前、飲み屋で知り合いに尋ねられた。
「ほんだし」
 そう私は迷わず答えたのだが、
 その時の彼女の失望した顔が忘れられない。
「ずいぶん料理してるって言ってたけど、
 ほんだしか」
 と、その時彼女が言ったのだったか、
 私が勝手にそう言われたと
 思い込んだのかは分からないが、
 そう私の記憶に刻まれたのだった。
 つい先日、その飲み屋で彼女に
 何年かぶりに会った。
 その飲み屋といっても、
 あの時から場所が移転して
 さらに何年も経っているから、
 あれはいったいいつの事だったのか。
 それで私はその彼女に
「いま出汁は昆布と煮干しで取ってる」
 と言ってみた。
「なに、突然」
 彼女はコートをハンガーにかけながら
 怪訝な顔で私を見た。
「いや、ほらずっと前、
 出汁は何で取ってるって話したよね」
「あぁ、そういえば。って、それいつの話よ」
 いま私は時空を超えてきたのだった。
「あの頃は料理教室に通ってて、ちょうど
 出汁の取り方を教わってる時だったのよ」
 そう彼女は言った。
 私が昆布と煮干しで出汁を取っている
 ということには特に興味はなさそうだった。
 しかし私としては、
 昔年の心の棘のようなものが抜けた気がして
 この日のほんの短い時間、
 立ち飲みの店に寄れてよかった。
 そう思った。

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ロボット

去年の大きな出来事のひとつに
ルンバを買ったというのがある。
あの円盤型の勝手に掃除機を
かけてくれるやつである。
毎日だいたい20分くらいかかっていた
掃除機をかける時間がゼロになった。
これはすごい。
高い買い物のように思えるが、
20分はひと月で620分
つまりなんと6時間20分である。
年間で124時間(5日分)である。
十分元が取れてるような気がする。
ところで、あれは「ロボット」なんだろうか。
世間ではあれを掃除ロボットと言っている。
自分の中では「ロボット」というと
目や口や手足がついているものを想像する。
スターウォーズで言えば、C3POはロボットだが、
R2D2がロボットかと言われると
ちょっと微妙な気持ちになる。
要するに「ロボット」という言葉に
先入観があり、固定したイメージを持っている。
それはたぶんSF映画の見過ぎである。
調べてみるとロボット白書(そんなのがある)には
「センサー、知能・制御系、駆動系の3つの
要素技術を有する、知能化した機械システム」
と書いてある。ほう。
「知能化した機械システム」
ルンバは知能化しているのだろうか?
知能って何?
よけいわからなくなってきた。
自動掃除機でいいのではと思うが、
部屋の地図を作成して勝手に動き回っているのを
見ると、いやロボットかもと思ったりする。

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サイト不具合情報

このサイトをモバイル版(スマホで見ると最初そうなる)と
コメントがうまく表示されないという問題があるようです。
原因を調べてるんですが、まだわかっていません。
なので、通常のDesktop版で見るとコメントが見られる
ということを書いておきます。

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