企み

小説には企みがあるのだという。
私はその企みがよく分からない。
「この小説はこういう企みをもって書かれている」
と人から聞いて初めて、へぇそうなんだと思う。
そういうのを「全然小説が読めていない」
と言うのだそうだ。
私は、文書を書く時も読む時も
「企み」を意識したことなどなかった。
世界は企みに溢れている。
困ったものだと私は思い途方にくれる。
日頃から色々なことを企んでいる人にしか
他人の「企み」に気付けないのではないだろうか。
日頃から「企む」習慣をつけよう
というのも何だか前向きでないような
気がするのである。

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帽子

イタリア人はみんな
きっと素敵な帽子を被っているだろう。
そう思ってイタリアに行ったが、
ほとんど誰も被っていなかった。
たまに見かける帽子の人は旅行者ばかり。
日本人は歳を重ねると帽子を被るようになる。
これはだいたい太陽ではなくて
人の目を遮るためである。
みすぼらしくなった頭部に注がれる視線を。
イタリア人はそもそも
歳を取ったということを
みすぼらしくなったなどと
思ってはいないのだろう。
だから帽子で遮る必要もないのだ。
世の中に対する自身の存在価値が
少しずつ損なわれてゆくように思えるのは
自分たちが作り上げた世界に自信が
無いからではないかと思う。
自慢できる舞台装置を
後世に残さないとね。

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静寂

ときどき静寂について考える。
田舎に帰って実家で眠ったのは
もう思い出せないほど昔のことになっている。
この頃は実家に帰っても
泊まることはなく、近くのホテルに
泊まっているからだ。
歳をとって両親が死んでしまうと
実家はもう実家ではなく兄弟の家である。
それはともかく、田舎で眠ると
どこまでも深いところに落ちてゆくような
感覚に包まれる。
たぶんそれは人工的な「音」が無いせいだ。
東京はいくら静かだと思っても
通奏低音のように人工の音で満たされている。
もちろんそれは耳に聴こえない
帯域の音も含まれている。
そしてその人工の音がタクトを振って
私の生命のリズムを指揮している。
風が轟々と吹く日や、
雨が沢山降って窓を叩くような日の方が
心が安らかで深く眠れる。
たぶん人口的な音がかき消されている。
指揮者が変わるのである。
そういう意味で田舎の指揮者で育った人は
都会で暮らさない方が
心が穏やかかもしれない。
そんな気がするのだ。

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痛み

採血する機会が時々ある。
どんな病院で採血する時も
看護師が針を刺しながら私の顔を見て
「あっごめんなさい痛かったですね、
 すぐ終わりますからね」
と毎回子供に言うように言う。
よほど痛そうに見えるらしい。
本人はそれほどでもないのだけれど。
いえ、小さい頃から表現が過剰で親に
「またそんなオーバーな」と
いつも言われてたんですよ。
そう返そう思うのだが、まだ言えていない。
保育園に通っている頃、
私は予防接種の列から逃げ回っていた。
注射が好きな人はいないと思うが
私は度が外れていたようだ。
子供は大人よりも本当に注射が痛く感じると
いつかテレビが話していた。
なんでも大人の十倍痛いのだという。
神経の回路が未発達なので、
何もかもが痛みとして伝達されるのだそうだ。
「発達」とは、取り入れた物の種類を
分類できるようになることのようだ。
そう考えると確かに味覚も
ほんの少しの苦味をうまいと感じるまでに
少しの物語が必要になることも納得できる。
私はまだ発達する余地があるのだろうか。

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短い動画

猫がそうであるように、人間も
動くものに反応するように設計されている。
それに興味があるか無いかに関係なく
自動的に動くものに反応する。
そういう特性を利用して
この頃は短い動画を共有する
インターネットのサービスが沢山ある。
あれは「見る」のではなく
「見てしまう」ようにできている。
静止画であれば見ない
あるいは飛ばすようなものも見てしまう。
選択の余地というものが消えるのである。
故に非常に危険である。
テレビのコマーシャルも同様だが、
これは宣伝であるということが
最初からわかる枠になっているので、
人々はその間にトイレに行ったり
お茶を入れたりする。
ショートムービーは玉石混淆で
自分にとって意味のあるものが少ない。
選択できない時点でずるいのである。
私はこの頃、ショートムービーが出てくると
無条件に見飛ばすようにしている。
その方が精神衛生上よいような気がする。
どんなことも「選択」することで
自分というものは作られてゆくのだから
選択できないようなものは
取り除いてゆかなければ、
自分の形が曖昧になってゆくような気がする。

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訃報

こちら側の世界では、
光がさして雲が流れ
鳥が囀っている。
このところ訃報が続く。
近い人、遠い人、有名な人
どんな人も私の形を明らかにするための
杭のような存在であったものである。
人は必ず死んで消えてゆくが、
若い頃に受け止めた「死」というものと
歳を取ってからやってくる他者の「死」は
ずいぶん違うものになっている。
杭の距離が近くなっていて
すぽんとそれが抜かれてしまったような
気持ちになるのだ。
途端に私の形が少し曖昧になってしまう。
そういうことが連続で起こる。
瞳を閉じる必要はなく
祈りは空に広がってゆく。

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花鳥風月

田舎にいた頃は「花見」と呼ぶ宴会を
する習慣は無かったような気がする。
まだ子供で酒を飲まなかったからかも
しれないけれど、そもそも桜の木が
そんなにたくさん無かった。
せいぜい学校の校庭にあるくらいだった。
しかし今、田舎に帰るといたるところに
桜の木が植えられている。
「町興し」というものが流行した頃に
植えられたのだと思う。
川沿いの堤防に桜並木ができている。
山の中の樹齢七百年以上の桜が有名になって
山道が渋滞するのだという。
話題というのは人を呼ぶ。
人々はそれを見に行って、思い出を作る。
私は、そう聞くと足が向かなくなる。
それが何故なのか自分でもよくわからない。
たぶん、たくさんの人を見たくないのだろう。
花鳥風月というものは
ひとりで見るものだと思っている。
この間、どこかで偉い人が、
この頃の幸福感は対人関係に依存していて、
人間以外から幸福感を得られなくなっている
と言っていた。
要するに現代人には
花鳥風月が不足しているのだと。
人間ばかりに向き合わず、花や動物や、
風景や物や月を、ひっそりとひとりで見て
幸福感を充電できたらと思う。

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歯ブラシ

歯医者に歯ブラシを持って行ったら
歯ではなく歯ブラシを褒められた。
「その歯ブラシいいですよね」と
歯科衛生士は言った。
そのスエーデン製の歯ブラシ
ネットでしか買えないんですよねと彼女は言う。
そうか、これはネットで買ったんだったか。
自分がこの歯ブラシをどこで買ったのか
すっかり忘れている。
家ではもっぱら電動歯ブラシなので、
普通の歯ブラシを使うことが少なく
その辺にあったやつを持ってきたのだった。
衛生士は、やはり手で磨かないとと言う。
そうかな。
自分の場合は手で磨くよりもよっぽど
電動の方がよく磨けると思うんだけど
と思ったが言わなかった。
この頃、反論しても無意味だと思うことが
増えたような気がする。
言葉が持つ力だけでは通じない。
言葉の周辺にある雰囲気を
感じ取ることができるかどうかで、
伝わるかどうかが決まるのだと思う。
それは猫に話しかけた時でも同じである。
言葉の並びで音色をどのように作るか
そういうことに力を注ぐべきなのだ。

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ディジタル

ディジタルなものを
ディジタルにするのはかまわないが、
アナログなものを
ディジタルにすると抜けたものになる。
つまり、三切れの小さな羊羹を
ディジタルにすることはできるが、
一本の長く大きな羊羹をそのまま
ディジタルにはできないということである。
要するにそれは恵方巻きが切れていないのと
深い関係がある。
わかりやすく言えば、製氷皿のように
枠が仕切られていて、
入る個数が決まっているのである。
全部は入らないから、ところどころ
切って入れるのである。
漉餡の羊羹ならば同じようなものだが、
栗羊羹だったら大変だ。
どう切っても栗が丸ごと入らない。
仕方がないので、栗の真ん中をはずして
切って両端を入れれば、ちょっと小さめの
栗であったということがわかるであろう。
もはや大きな栗が入っていたということは
わからなくなってしまうのだ。
全ては入らないから、捨てるものと
残すものを選択しなければならない。
それがディジタルというものである。
私は捨てたものが、本当に
捨てられるべきものだったのだろうかと
考えてしまう。

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電池

いつの間にか三月になっている。
南からの風がごうごうと音をたてて、
砂や塵や花粉を舞いあげているのか
世界は薄茶色に霞み
目や鼻に違和感がある。
それが春というものだとすると
喜ぶべきことなのかもしれない。
湿度が少し上がってくれると助かる。
私は電気を溜めやすいようだ。
たぶん水分が多いからではないか。
だから冬場、乾燥していると金属を
触るたびに体に溜まった電気が
ばちんと音がするほどの勢いで
地球に流れてゆく。
いつでも金属を触るのが怖く、
車のドアを恐る恐る触る日々が続く。
この電気を何か有効なことに
使えないものかと思うのだが、
今のところ、特にいいアイディアはない。
世の中は電気で動いている。
この頃は、車も自転車も電気で動く。
「電池」という言葉を考えた人は
素敵だなと思って調べてみたら、
昔は硫酸を箱に入れて電極を
垂らしていたので液体を溜めているから
本当に「池」だったようで、
それは想像ではなくて現実だったようだ。
何かを想像することは楽しいことだけど、
現実に繋がると色々と別の思惑が渦巻いて
いやらしくなってゆくような気がする。

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