痛み

採血する機会が時々ある。
どんな病院で採血する時も
看護師が針を刺しながら私の顔を見て
「あっごめんなさい痛かったですね、
 すぐ終わりますからね」
と毎回子供に言うように言う。
よほど痛そうに見えるらしい。
本人はそれほどでもないのだけれど。
いえ、小さい頃から表現が過剰で親に
「またそんなオーバーな」と
いつも言われてたんですよ。
そう返そう思うのだが、まだ言えていない。
保育園に通っている頃、
私は予防接種の列から逃げ回っていた。
注射が好きな人はいないと思うが
私は度が外れていたようだ。
子供は大人よりも本当に注射が痛く感じると
いつかテレビが話していた。
なんでも大人の十倍痛いのだという。
神経の回路が未発達なので、
何もかもが痛みとして伝達されるのだそうだ。
「発達」とは、取り入れた物の種類を
分類できるようになることのようだ。
そう考えると確かに味覚も
ほんの少しの苦味をうまいと感じるまでに
少しの物語が必要になることも納得できる。
私はまだ発達する余地があるのだろうか。

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短い動画

猫がそうであるように、人間も
動くものに反応するように設計されている。
それに興味があるか無いかに関係なく
自動的に動くものに反応する。
そういう特性を利用して
この頃は短い動画を共有する
インターネットのサービスが沢山ある。
あれは「見る」のではなく
「見てしまう」ようにできている。
静止画であれば見ない
あるいは飛ばすようなものも見てしまう。
選択の余地というものが消えるのである。
故に非常に危険である。
テレビのコマーシャルも同様だが、
これは宣伝であるということが
最初からわかる枠になっているので、
人々はその間にトイレに行ったり
お茶を入れたりする。
ショートムービーは玉石混淆で
自分にとって意味のあるものが少ない。
選択できない時点でずるいのである。
私はこの頃、ショートムービーが出てくると
無条件に見飛ばすようにしている。
その方が精神衛生上よいような気がする。
どんなことも「選択」することで
自分というものは作られてゆくのだから
選択できないようなものは
取り除いてゆかなければ、
自分の形が曖昧になってゆくような気がする。

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訃報

こちら側の世界では、
光がさして雲が流れ
鳥が囀っている。
このところ訃報が続く。
近い人、遠い人、有名な人
どんな人も私の形を明らかにするための
杭のような存在であったものである。
人は必ず死んで消えてゆくが、
若い頃に受け止めた「死」というものと
歳を取ってからやってくる他者の「死」は
ずいぶん違うものになっている。
杭の距離が近くなっていて
すぽんとそれが抜かれてしまったような
気持ちになるのだ。
途端に私の形が少し曖昧になってしまう。
そういうことが連続で起こる。
瞳を閉じる必要はなく
祈りは空に広がってゆく。

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花鳥風月

田舎にいた頃は「花見」と呼ぶ宴会を
する習慣は無かったような気がする。
まだ子供で酒を飲まなかったからかも
しれないけれど、そもそも桜の木が
そんなにたくさん無かった。
せいぜい学校の校庭にあるくらいだった。
しかし今、田舎に帰るといたるところに
桜の木が植えられている。
「町興し」というものが流行した頃に
植えられたのだと思う。
川沿いの堤防に桜並木ができている。
山の中の樹齢七百年以上の桜が有名になって
山道が渋滞するのだという。
話題というのは人を呼ぶ。
人々はそれを見に行って、思い出を作る。
私は、そう聞くと足が向かなくなる。
それが何故なのか自分でもよくわからない。
たぶん、たくさんの人を見たくないのだろう。
花鳥風月というものは
ひとりで見るものだと思っている。
この間、どこかで偉い人が、
この頃の幸福感は対人関係に依存していて、
人間以外から幸福感を得られなくなっている
と言っていた。
要するに現代人には
花鳥風月が不足しているのだと。
人間ばかりに向き合わず、花や動物や、
風景や物や月を、ひっそりとひとりで見て
幸福感を充電できたらと思う。

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歯ブラシ

歯医者に歯ブラシを持って行ったら
歯ではなく歯ブラシを褒められた。
「その歯ブラシいいですよね」と
歯科衛生士は言った。
そのスエーデン製の歯ブラシ
ネットでしか買えないんですよねと彼女は言う。
そうか、これはネットで買ったんだったか。
自分がこの歯ブラシをどこで買ったのか
すっかり忘れている。
家ではもっぱら電動歯ブラシなので、
普通の歯ブラシを使うことが少なく
その辺にあったやつを持ってきたのだった。
衛生士は、やはり手で磨かないとと言う。
そうかな。
自分の場合は手で磨くよりもよっぽど
電動の方がよく磨けると思うんだけど
と思ったが言わなかった。
この頃、反論しても無意味だと思うことが
増えたような気がする。
言葉が持つ力だけでは通じない。
言葉の周辺にある雰囲気を
感じ取ることができるかどうかで、
伝わるかどうかが決まるのだと思う。
それは猫に話しかけた時でも同じである。
言葉の並びで音色をどのように作るか
そういうことに力を注ぐべきなのだ。

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ディジタル

ディジタルなものを
ディジタルにするのはかまわないが、
アナログなものを
ディジタルにすると抜けたものになる。
つまり、三切れの小さな羊羹を
ディジタルにすることはできるが、
一本の長く大きな羊羹をそのまま
ディジタルにはできないということである。
要するにそれは恵方巻きが切れていないのと
深い関係がある。
わかりやすく言えば、製氷皿のように
枠が仕切られていて、
入る個数が決まっているのである。
全部は入らないから、ところどころ
切って入れるのである。
漉餡の羊羹ならば同じようなものだが、
栗羊羹だったら大変だ。
どう切っても栗が丸ごと入らない。
仕方がないので、栗の真ん中をはずして
切って両端を入れれば、ちょっと小さめの
栗であったということがわかるであろう。
もはや大きな栗が入っていたということは
わからなくなってしまうのだ。
全ては入らないから、捨てるものと
残すものを選択しなければならない。
それがディジタルというものである。
私は捨てたものが、本当に
捨てられるべきものだったのだろうかと
考えてしまう。

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電池

いつの間にか三月になっている。
南からの風がごうごうと音をたてて、
砂や塵や花粉を舞いあげているのか
世界は薄茶色に霞み
目や鼻に違和感がある。
それが春というものだとすると
喜ぶべきことなのかもしれない。
湿度が少し上がってくれると助かる。
私は電気を溜めやすいようだ。
たぶん水分が多いからではないか。
だから冬場、乾燥していると金属を
触るたびに体に溜まった電気が
ばちんと音がするほどの勢いで
地球に流れてゆく。
いつでも金属を触るのが怖く、
車のドアを恐る恐る触る日々が続く。
この電気を何か有効なことに
使えないものかと思うのだが、
今のところ、特にいいアイディアはない。
世の中は電気で動いている。
この頃は、車も自転車も電気で動く。
「電池」という言葉を考えた人は
素敵だなと思って調べてみたら、
昔は硫酸を箱に入れて電極を
垂らしていたので液体を溜めているから
本当に「池」だったようで、
それは想像ではなくて現実だったようだ。
何かを想像することは楽しいことだけど、
現実に繋がると色々と別の思惑が渦巻いて
いやらしくなってゆくような気がする。

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植物図鑑

文字をするすると読んで、
書かれていることから自由に想像し、
想いを巡らせることができるようになる前に
図鑑というものに出会った。
たぶん年上の兄がいたから、そういうものが
家にあったということだと思うが、
当時は大全集的な百科事典のセットを
訪問販売する業者が多かったので、
断ることが苦手な親がうっかり買ってしまい、
棚の大部分が分厚いカバーのついた
百科事典でうまっていた。
そしてその百科事典は誰にも
読まれることがなかった。
その頃の私は長い長い時間の糸を
どのように巻き取るかということが
一日の課題だったので、端からその
百科事典を開いた。
読めないところは飛ばして、絵だけ見た。
この世界のこと、私が
知りたいことはだいたい書いてあったから
それはとても助かった。
しかし、植物のことが足りなかった。
私は人間や動物よりも植物が好きだったのだ。
植物は動かないところがよかった。
会いたい時に植物が生えている場所に行けば
いつでも会えたし、同じ場所で育つから
毎日成長を見られるし、何より彼らは
私に付き纏わない。
そんな彼らのことをもっと知りたかったが、
百科事典は薄く広い知識しか
書かれていなかった。
私は街に出た時、祖母と本屋に行き、
植物図鑑をねだって買ってもらった。
たしか、学研だか小学館だかの
そんなに分厚くないけれど、絵がたくさん
書かれていたやつだったと思う。
その植物図鑑が衝撃だった。
草むらはいつまでも草むらではない
ということが丁寧に描いてあった。
更地になったところに、どこからか
草の種がもたらされて草が生えるが、
そのうちにセイタカアワダチソウのような
毒を持った草が世界を取り、しかし彼らも
そのうちに、もっと背が高く力の強い
多年草の草に取って代わられ、
どんどん移り変わるというのである。
やがて木が生え、最初は陽当たりを好む
松や白樺の陽樹が育つが、やがて
陽当たりがなくても育つブナやカシなどの
陰樹に入れ替わるのだという。
草が生え、育ち、種ができて落ち、
そこからまた新しい芽が出て…
ということが永遠に続くと思っていた
私にとって、それはとても
ショックなことだった。
草木は動かないところがよかったのに
動き、遷移し、淘汰される。
永遠など存在しない。
そして、そこに「物語」が生まれる。
そういうことを植物図鑑は私に注ぎ込んだ。
あの図鑑はどこにいっただろう。
どんなものも、淘汰され、遷移し、
いつのまにか消えてなくなる。
苦しみには希望を、喜びには絶望を与え、
世界の物語は紡がれるのである。

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水を溜めない

貯水タンクをやめたのだそうだ。
水道管から直接各戸に給水するようにしたと
掲示板に貼ってあった。
上水の水圧では三階までしか上がらないから、
どこかで加圧して、
私の蛇口まで来ているのだろう。
給水が変わってから、湯船で
あの鉄錆の匂いを吸い込むことがなくなった。
あれは貯水タンクの中で
色々なものが溶けこんだ匂いだったのだ。
ウォータータンクを
見るのも撮るのも好きだけれど、
味わいたくはないものだと思った。
私たちの六十パーセントは水だと言う。
そういう意味では、この蛇口から
出てくるものは「わたし」である。
もしかしたら、かつて誰かだったものである。
巡っているのだ。
地球というのは私のことでもあった。
水はどこかに留まらないのが素性だ。
常に流れ、常に消費され、常に揮発し、
常に巡っている。
そもそも溜めるという行為が
間違っていたのだ。
正しい水のあり方に戻ったのだと思う。

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豆を撒く

実家は寺だったので、
子供の頃
節分には祖父が経をあげ豆を撒いた。
大きな木の枡に山盛りの
焼いた豆が盛られていて
それをまるで相撲取りが塩を撒くように
土間や座敷に向かって撒く。
鬼は外、福は内。
鬼は外、福は内。
祖父は躊躇しない人だった。
鬼は外、福は内。
鬼は外、福は内。
何度も繰り返すそのフレーズが
心を高揚させてゆくのがわかった。
子供だったからかどうかわからない。
それは今思えばヒップホップみたいで、
言葉が人に力を与えていた。
経も歌も掛け声もヒップホップも同じで
人の中にある力を呼び起こす。
やがて私は大人になり祖父は死んだ。
豆蒔きは親父の代になり、
それから親父が死んで兄の代になった。
でも彼らは躊躇している。
豆はちょっぴりしか撒かれない。
後の掃除が大変だからである。
もったいない、と思っているかもしれない。
言葉は消えた。
たぶんそれでよかった。
祖父の言葉は受け継がれず
私の中にしまわれている。
二月が進んでゆく。
今日はよく晴れて、
日差しが私に届いている。

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