小さな問題

生きてゆく上で大きな問題を
解決するのは難しいけれど、
実際に効果があるのは小さな問題を
取り除くことではないか。
そんなことをこの頃よく思う。
通る時にいつも避けなければならないような
邪魔な荷物をどけ、
重いドアは開きっぱなしにして、
目障りな小さなガラクタを箱に入れ、
流しの角の汚れを拭き取る。
そういうことで随分心が晴れるものだ。
この間、洗い物をする時に
トレーナーの袖を捲っても捲っても
落ちてきて濡れるのが煩わしいので、
袖留めを買ってみた。
単なるゴム入った長さ調整できるバンドだが、
それがとても良くて快適。
心のおもりがひとつ取れた感じがする。
ひとの世界は些細なことで組み上げられている。

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師走

いつもばたばたしているような気がする。
あっという間に師走になってしまって
あれ? おかしいなと思っている。
私にとって準備万端ということは
どんな時もないのだろうと思う。
さて。

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言葉

言葉がぶくぶくと湧いて出てくるような
そんな経験をしたことはなくて
捻り出す感じでものを書いているが、
なぜそうなのかについて
あまりよく考えたことがなくて、
そうなんだから、そうなのだろうと
単純に捉えている。
しかしそういうところが至る所にある、
そういうことに、ふと気づいてしまった。
たぶんそれは自意識によるものである。
つまり他者に自分がどう見られているか、
あるいはどう見られたいかということである。
自分は見窄らしい人間であると思っていて
故にそういうことからは遠いと思っていたが、
それこそが思い違いなのであった。
見栄えのよい人というのはよく
鏡を見るものだろう。
だから、自分の姿というものをよく知っているが、
見栄えの悪い者あるいはそう思い込んで
いる者は自分の姿を知らず、
故に現状の自分の最適な解というものを
見つけることができず、過大に見栄えを
制御しようと考えてしまうところにおいて
無理があり、その結果冒頭に記したような
捻り出すような無理に至るのである。
自分の姿をよく見るということは
自分の姿なりの最善を見つけるという意味で
とても大切なのだと思う。

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眼鏡

九月になった。
今年は蝉が鳴き止むのが早い気がする。
発音していた全個体が亡くなって
失われたのだと考えると
秋の訪れというのは随分罪深いと思う。
眼鏡は体の一部じゃないと
誰かが歌っていたが、二本目の眼鏡を作った。
「老眼鏡」などと言うのは日本だけで
海外では「リーディンググラス」と言うらしい。
つまり読書眼鏡。
でも今回作ったのは焦点距離を少し長くして
仕事用、つまり「PC眼鏡」
お前は「目だけはいいね」と親にも言われていて
それは決して褒め言葉ではなかったけれど、
目さえも悪くなった。
母親も若い頃は目だけはよかったと
何度も聞かされた。
職場の脇を流れる広い河の向こう岸の道を
自転車で誰かが走っているのを
窓越しに眺めて「あ、川上さんだ」と
認識できるぐらいだったそうだ。
そういう母も晩年は眼鏡が手放せなかった。
季節というのは移り変わるものだ。

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温度

八月になって立秋も過ぎた。
太陽の傾きは増して残暑の光。
しかし南から吹く風は灼熱を運んでくる。
人間が許容できる「温度」は狭い。
四十一度の風呂には入れるが、
四十五度の風呂は熱すぎて入れない。
三十六度の体温は平熱だが、
四十度の体温は高熱である。
ほんの数度で人には受け入れ難い環境になる。
最高気温が三十六度とか三十八度とか、
クーラーというものが発明されていなければ
自分なんかはとっくに伸びている。
色々なことがずいぶんまずいことに
なっているような気がする。
私が気に病んでも、そこに画期的な何かが
できるわけではないのだけれど、それは
すべて人によってもたらされている危機で、
私もその愚かな人の一味なのである。
そういう絶望の膜に覆われて、今日も
空に浮かぶ入道雲を数えている。

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夢の夢

ぼんやりしているうちに
七月も半分過ぎてしまって
林では蝉が鳴いており
体温くらいの気温が続いたりして
間違いなく夏なのである。
しかしどうも私は
これを夏だと認めたくないような
そんな気持ちを持っているようだ。
人工的に作られた舞台装置で
強いライトがあてられていて
何か台詞を言わなければならないが、
私は台詞を忘れてしまって
ただ客席の方を見ている。
客席には誰も見えない
たぶん強いライトのせいで目が
おかしくなってしまったに違いない。
そんな心持ちである。
そのくらい現実世界と心が
離れてしまったのではないか
そんなことを言ってみるが、
いまはもうどんな人ともそういう事実を
共有することはできないかもしれない。
つまり季節って温度のことではないと
私は思っていて、温度以外のあらゆる
瑣末なことをテレビのニュースが
掃除機のように吸い取ってゆく。
このごろ長い夢をよく見る。
もしかしたら、夢はずっと続いていて
これも夢の中なのかもしれない。
夢から覚めたら、私は小学生だろうか
それとも老人だろうか。
とにかく冷たく冷やした麦茶を一杯
飲んでみることだ。
そうすればきっと分かるだろう。

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梅雨

梅雨に入ったとみられる
予報士は四角い画面の中で言う。
しばらく前から雨が続いていたから
雨の季節だということは十分わかっている。
しかし予報士のこの宣言が
世の中には必要なのだろう。
ひとは全てのことに名前をつける。
おかげでこうやって言葉によって
あらゆる事を伝えることができる。
見渡すかぎり、名前がついていないことは
ほとんどない。
だから何もかも言葉で伝えられるはずだが、
意外にそうでもないのは
名前が多すぎるせいで、適切な言葉を
選ばなければならないからだ。
何でも言い表せるようにしたことが
かえって色々な事を難しくしている。
例えば「愛」という言葉があるけれど、
この言葉をびったりと体に合った
洋服のように着こなせる人は
どのくらいいるだろう。
名前を考えた人と使う人は違う。
本当は自分の考えた言葉を使うべきなのだ。
勿論そんなことは不可能であることを
私も知ってはいるし、
そもそも自分で作った言葉は人に通じない。
だから結局、言葉で伝わっているのは
伝えたいことのせいぜい半分程度だ。
そう思って言葉の向こう側にあるものを
想像する必要があるだろう。

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企み

小説には企みがあるのだという。
私はその企みがよく分からない。
「この小説はこういう企みをもって書かれている」
と人から聞いて初めて、へぇそうなんだと思う。
そういうのを「全然小説が読めていない」
と言うのだそうだ。
私は、文書を書く時も読む時も
「企み」を意識したことなどなかった。
世界は企みに溢れている。
困ったものだと私は思い途方にくれる。
日頃から色々なことを企んでいる人にしか
他人の「企み」に気付けないのではないだろうか。
日頃から「企む」習慣をつけよう
というのも何だか前向きでないような
気がするのである。

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帽子

イタリア人はみんな
きっと素敵な帽子を被っているだろう。
そう思ってイタリアに行ったが、
ほとんど誰も被っていなかった。
たまに見かける帽子の人は旅行者ばかり。
日本人は歳を重ねると帽子を被るようになる。
これはだいたい太陽ではなくて
人の目を遮るためである。
みすぼらしくなった頭部に注がれる視線を。
イタリア人はそもそも
歳を取ったということを
みすぼらしくなったなどと
思ってはいないのだろう。
だから帽子で遮る必要もないのだ。
世の中に対する自身の存在価値が
少しずつ損なわれてゆくように思えるのは
自分たちが作り上げた世界に自信が
無いからではないかと思う。
自慢できる舞台装置を
後世に残さないとね。

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静寂

ときどき静寂について考える。
田舎に帰って実家で眠ったのは
もう思い出せないほど昔のことになっている。
この頃は実家に帰っても
泊まることはなく、近くのホテルに
泊まっているからだ。
歳をとって両親が死んでしまうと
実家はもう実家ではなく兄弟の家である。
それはともかく、田舎で眠ると
どこまでも深いところに落ちてゆくような
感覚に包まれる。
たぶんそれは人工的な「音」が無いせいだ。
東京はいくら静かだと思っても
通奏低音のように人工の音で満たされている。
もちろんそれは耳に聴こえない
帯域の音も含まれている。
そしてその人工の音がタクトを振って
私の生命のリズムを指揮している。
風が轟々と吹く日や、
雨が沢山降って窓を叩くような日の方が
心が安らかで深く眠れる。
たぶん人口的な音がかき消されている。
指揮者が変わるのである。
そういう意味で田舎の指揮者で育った人は
都会で暮らさない方が
心が穏やかかもしれない。
そんな気がするのだ。

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