記念日

「祝日」というのはよい言葉だと思う。
何かを祝うことの喜びが
体のどこかに格納されていて、
そういったことがあたたかく
溢れ出してくるようなことだと思う。
しかし、現在の日本の祝日というものは
単なる休日であって、
たぶん誰も何も祝ってはいない。
その証拠に祝日を月曜日に移動しても
誰も文句を言わず、合理的だと思う。
ずっと昔の記憶にとどめておくべき日を
祝日にするのではなくて、
こころからあたたかくなる日を
祝日として更新すべきではないだろうか。
クリスマスがやってくるこの季節に
いつもそういうことを考える。
休まなくてもよい
私は私にとっての祝日を持ちたい。

からだにもこころにも寒い日が続く。
この季節はこんなに寒かっただろうかと、
よく思うけれど
こんなに寒い時も、そうでない時もあったのだ。
地球が変わってゆくのだとすると、
地球の一部である自分も変わってゆくのだろう。
今は今しかないのに、同じ事が
また繰り返されると思うのはなぜだろう。
レコード盤のように、
ぐるぐると回っているけれど、
一枚の音をすべて奏で終わるまでに
同じ溝は一度しかトレースされないのだ。
私は日々を
精一杯生きているわけではないかもしれない。
しかし、どちらにしても
日々を下ってゆくひとつの塊である。

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十二月に入ると急に寒くなった。
冬の寒さを私は忘れてしまったのだろうか
と思うほどに寒くて
まるで年明けのような心持ちでいる。
ベランダで見る太陽は確かに低い位置にあって、
地軸の角度が変わっていることが分かる。
冬はなぜ寒いのか
ということについて
子供の頃に教わっただろうか。
教わったような気もするし、
教わらなかったような気もする。
冬は冬で寒いのが当たり前で
理屈など関係ないかもしれない。
しかし、知っていることによって
多少の希望というものが
持てるかもしれないと思ったりする。

この頃は、炬燵も蜜柑も売れていないのだそうだ。
四角いテレビがそう言っている。
本当か嘘かそれは分からないけれど、
季節が変わるからすることというのが
だんだん無くなってゆくような気がする。
所謂、風物詩というもの。
そういえば、実家では母が死んでから
餅というものをつかなくなった。
詩は人の中にあるのだろう。

「やさしさ」とは「共感性」なのだそうだ。
何かの記事に書かれていた。
価値観は多様化しているとメディアは言うが、
私にはそうは思えない。
グループ分けをして、その外側を見ないようにしている
というだけのことではないだろうか。
共感性ではなくて、共通性を求めるのが
今の世の中なのかもしれない。

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主題

日々の生活にテーマなどないが
あってもいいかもしれないと
この頃思う。
テーマをもって書かれない小説は
面白みのないものになるだろう。
テーマとはふるいのようなもので、
ものごとの粒をそろえる。
またテーマとは光のようなもので、
ものごとの一方から照らし、
伸びる影の長さを見せる。
私はテーマというのは
後から滲み出てくるようなものかと
ずっと思っていたが、
それはテーマではなくて
素性というものだった。

風邪を引いて寝込んだ。
父親の葬儀の日が寒すぎて、
帰ってきてすぐに寝込むかと思ったが、
二週間ほど低空飛行の後
落下するに至った。
風邪を引いて寝込むといつものことではあるが、
自分の不要さについて延々と考える。
そしてこのまま死ぬかもしれない
などと考える。
しかし、死にはしない。
私の中の白血球は私を生かそうとして闘い
私の脳は体温を上昇させて
私を蝕むものを死滅させようとする。
私は敵に立ち向かう私の体のどこかに
ひっそりとあって、
私のために闘う私に対して感謝するとともに、
人というのは、生きようとするように
できているのだということに気付く。
冬の日に。

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エンディング

雨が降るかもしれない
ということは知っていました。
雲の立体がそう囁いていました。
朝のことです。
しかし私はたいしたことはないと
思っていたのです。
だから洗濯もして
傘を持たないで病院に行きました。
バスの窓に雨滴が落ちるところを
私は見ました。
けれど、それは左右に分けられるほどの
ことはありませんでした。
待合室は混み合っていました。
座るところを探さねばなりませんでした。
冬になると病院は混み合うのでしょう。
寒さは人にとって
危機なのかもしれません。
後から来る人々はみな傘を持っていました。
ぽたぽたと床に水が落ちていました。
私は血圧の薬を貰いに来たのですが、
風邪の薬も処方してもらいました。
忍び込まれてしまったのです。
病院を出ると
雨は本気で降っていました。
私は傘を買いました。
それから用事を済ませて
帰りのバスに乗る頃、
空はもう青でした。
私は傘をたたんで手提げに入れました。
新しい傘は水を弾くのです。
様々なものを弾くことができるのは
新しいうちです。
11月はもう残されていません。
理由などありません。
ただそういうふうになっている
ということなのだと思います。

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すっかり落ちてしまいました。
色々なものが落ちるのが
この季節の特徴です。
押し寄せてくるのが眠気です。
バスの窓は私のように曇っていました。
雨の日はいつもそうです。
一向に進まない理由を
私は分かろうとは思いませんでしたが、
赤い消防車の幻影が
次から次に通り過ぎてゆき、
多分これは火事による渋滞であろうと
鈍く私は思いました。
しかし、どうすることもできないのも
また私の特徴でした。
勤めている会社が移転するというので、
この頃、様々な物を棄てています。
必要なものなどほとんど無いということを知っています。
五年前ならば
きっとそんなに物を棄てなかったでしょう。
人は五年経つと随分変わります。
世界との関わりといったようなものが。
そうそう
来年の手帳を買いました。
正しくは手帳のリフィルというものですが。
その格子の中で私は
生きているのだろうと思います。

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晩秋

公園を歩くと
いつの間にか秋は進んでいる。
池の上を渡ってゆく
大勢の人々。
どこかに行って
日常とは異なる何かを見ている。
色々な毎日のできごとは
桜の葉のように
はらはらと舞って
地表に到達する。
そしていつか大地になって
見えなくなってしまうだろう。
繰り返すこと
いつも同じ場所で間違える
ピアノの演奏。
学習では補えないことがあって
それが個というものだろう。
夏の日に雷雨の中を歩いたことを
冬になると忘れてしまうけれど、
また夏が来て雷が鳴ると
そのことを思い出すだろう。
人は同じような状況に出会って
初めて過去の出来事を蘇らせることができる。
そしていつも同じことをする。
クレーンの影がいくつも空に伸びている。
あの場所に大きなマンションが出来るのだ。
そうして向こう側は見えなくなる。
そのことを私はとても残念に思うが、
きっと馴れるだろう。

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アナザーフィールド

父の葬儀を二度もするとは思っていませんでした。
しかし、それはそもそも父が決めた事でした。
落慶法要の前に本葬をしない方が良いのだと
彼は言ったのでした。
経緯はさておいて、そのために
色々なことを一度にしなければならなくなって、
何がなんだか分かりませんでした。
一日のうちに、黒いネクタイと白いネクタイを
締め変えなければなりませんでした。
大勢の人、人、人。
私は冷たい畳の上に座って
それを見ていました。
着る物を間違えたのです。
こんなに寒いとは思っていませんでした。
寒さに震え、足の痛みに耐えなければなりませんでした。
僧侶の死は遷化というもので、
要するにフィールドが移動しただけ、なのだそうです。
そして餅が撒かれました。
赤と白の幕の上から
集落の人々は勢いよく餅を空に放ちました。
仮装している人もいました。
紅白の餅でした。
そうです
何もかもが一度に来るのが私でした。
そういうことを思い出しました。
結局は本質的なことに戻ってくる。
生きるということは
ごまかせないものだと思います。
私の本質など、とうに明らかになっていて、
裁きを待っていたのでしょう。

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夜の公園

私は
夜の公園に忍び込んだわけではなくて、
ただ単に日が短くなっただけでした。
夜は時刻のことではなくて
太陽の都合なのでした。
足元でかさかさと音がしました。
それは乾燥した木の葉です。
辺り一面、落ち葉の匂いがしました。
これからの季節は
乾燥を促す季節なのです。
乾いた物は乾いた音を奏でます。
私はかつて命だったものを
柔らかく足の裏に感じながら
公園を歩きました。
ベンチに沈むカップルには
もう顔がありませんでした。
木立の上から月がちらちらと
覗いていました。
私は公園を横切ってあちら側に
ゆくところなのでした。
公園は目的ではなくて
単に通り道だったのです。
出口付近にある店の
灯りが暖かさを増しているように見えるのは
静けさが増しているということなのでしょう。
それが私にとっての
文化の日なのでした。

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冬星

ベランダでよく冷えた洗濯物を
夜が更けてから取り込んでいると、
オリオン座が昇っているのが
私にはよく見えました。
それは幼い頃に見たオリオン座と同じでした。
同じように見えました。
星にとって私の生きてきた時間は
ほんの一瞬にも満たないようなことなのです。
人というのは
ほんの些細なことで
嫌ったり嫌われたりして
とても遠くなってしまうものです。
しかしそれも
星にとっては目に見えないほどの事でしょう。
生命、というものが
苔のように地球を覆って
そしてまた土塊に変わって行くところを
彼らは見るのでしょう。
私は携帯電話のカメラで
オリオン座を撮ってみました。
盗撮防止の消すことの出来ないシャッター音が
建物の谷に響き渡りました。
私は星を盗撮したのでしょうか。
盗撮とは妙な言葉だと思います。
もっと別の言葉を使えばいいのに
と以前から私は思っています。
携帯電話の画面には
ただ闇があるだけで、
星などどこにもありませんでした。
星は、私の携帯電話には写らないものでした。
私は何だかほっとしました。

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そして私の舞台は暗転してから
風が吹いています。
どちらから風が吹くのかということが
様々なことを変えてゆくのでしょう。
「木枯らし」という言葉は
冷たさよりももっと別のものが
含まれているように思います。
それはメジャーセブンの音がします。
赤いギターを手に取ることが
めっきり少なくなりました。
弦の振動を体に受けるということが
よりどころだったころのことを
私はもう忘れてしまったのでしょうか。
いいえ、そうではなくて
きっと内包されたのです。
泡のようなものです。
エスプレッソを飲み干したときに
後に残るあれと同じです。
ところで朝までに風は
止むでしょうか。
私は北風に向かってペダルを
踏みたくはないのです。
いつの間に虫が鳴き止んだのか
あなたは知らないでしょう。

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