光について

ハケで塗りたくったような朝のこと、
そこらじゅうに光が溢れて、
バス停に向かう私の足取りは
バネを仕込んでいる。
出がけに急いで珈琲を入れて
水筒に詰めたのだが、
それをテーブルの上に置いたまま
部屋を出てきてしまった。
私は仕事をしながら、
水筒の事を考えていた。
ただ、冷めてゆく水筒のことである。

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ほんとうの切り取り方

大寒を過ぎてから風の強い日が続いた。
風速が1メートル強くなる度に
体感温度は1度下がるのだそうだ。
体感温度というのは本当の温度ではない。
しかし、人にとっては本当の温度である。
「ほんとう」は都合によってねじ曲げられる。
そうしていくつもの本当がある。
わたしはこの歳になっても
時々、本当のことが知りたくなる。
それは問題をどのように切り取るかという
ただそれだけでしかない。
もちろん、そんなこと知っているのだけれど
道を知っていても、目的地に辿り着けないのが
ひとというものではないだろうか。
そんな風にも思う。
わたしにとって、歩くことは日常だが、
走ることは非日常なのである。
まったく些細な違いである。

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電波

「いつも電波を出すようなものを持ち歩きたくないの」
 西山さんはそう言った。
「でも、そこら中の人がそういうものを持っているから
 自分で持たなくても、すでに電波に囲まれているじゃないですか」
「分かっているの、分かっているけど、身の回りに電波が飛び交っている
 ところを考えるとこうわーっとした感じで、
 だから自分からそういうのを持ちたくないの」
 西山さんは携帯電話を持たず、外にいる時はいつも
 公衆電話で電話を掛けていた。
「でも最近家族から連絡がつかなくて困るから
 頼むから携帯電話を持ってくれって言われていて、
 どうしようかしら」
「まぁとりあえず、持ってから考えたらどうですか
 持つ前に考えることと、持ってから考えることって
 結構違ったりするものですよ」
「そうねぇ」
 西山さんは、わたしの携帯端末を横目で見てから
 珈琲を一口飲んで首をかしげ、どこか遠くを
 見ているような目で窓の外を見た。

 誰もが何でもないと思うようなことだとしても、
 そこを簡単に通り過ぎられるかどうかというのは
 その人の「信念」のようなものによるのではないかと
 わたしは思う。
 信念は、その人をその人らしくするものでしょう。
 ひとの数だけあるものにとっての正解は
 ひとの数だけあるのでしょう。
 自分なりの真理というものを他者に押しつけてはいけない
 と、この頃わたしは思っている。
 しかし、それすらただわたしの信念なのである。

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ことしのゆくえ

私は「暇」だと思ったことがない。
「暇」とは何かよく分からない。
それは、個々の断片が「関連」の線から
外れていると意識することではないだろうか。
私は必ずしも、物事が明らかな関連の連なりであることを
求めてはいないようだ。
それはばらばらに存在しても構わない。
そして次々に入力されてくる物事の断片を
断片のまま解釈する素性を持っている。
つまり物語を求めてはいない。
長い間じっとしていても
それは苦痛ではない。
様々な事が点として動いてゆくのを知っている。
軌跡は辿らない。
どんなことも不思議であり興味深い。
そうやって生きてきたのであるが、
自分が求めようとしていることには甚だ不都合だと
いうことに最近気付いた。
すなわち物語を作り出そうとする場合のことである。
物事は関連の線を辿って繋がってゆかねばならない。
そういう訓練をしないようにしてきた。
最初は意識的にやがて無意識に。
それこそが逃避であった。
しかしそれは何の形も生まないのである。
不可解な事象として
まるで壁の染みのように残るだけだ。
歌わなければならないのだと思う。
なめらかに、次の音に繫げてゆかなければならない。
レガートに奏でなければならない。
それは私にとってとても困難なことではあるが、
今年、やるべきことがあるとすれば
そういうことだろう。

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冬の一日

気が済むまで眠ってみると
昼はとっくに過ぎている。
遮光カーテンというもののせいだと思う。
光を遮ることによって
眠りはどこまでも広げられる。

光はいきなり失われることはない。
夕方というものがある。
それは失うための儀式である。
オレンジ色は救済する。
たとえ冷たくなってくるのだとしても。

このごろはあらゆることから
儀式的なことを省く。
様々なことが突然やってくる。
そういったディジタルな現実に
生身のものが対応できるわけがない。
徐々に夜は明けて
徐々に日は暮れるべきなのである。

そして私は「棘」について考える。
棘、というものは抜かれるべきものであるが、
棘は自分で抜くのではなくて、
誰か別の人によって抜かれるべきではないか。
他人でなければ、抜くことはできないのではないか。
そしてそれは確信である。

テンポとはどのように時間を切り分けるか
ということだと思う。
等速に合わせなくとも、
割ったり掛けたりした倍率で調節すれば
もう少し上手に生きられるのではないか
そういうふうに思う。
すべては音楽であり、音楽の中にすべてはある。

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ごうごうと風が
窓に吹き付けるのを聴いていた。
冷たい夜だった。
密閉されたマンションの部屋には
空気を取り入れる穴が空いている。
部屋の隅のその穴から
冷たい空気が入り込んでくるのが分かった。
それが部屋の中を一回りして
そして私の顔をなでていた。
そういえば年が明けたのだった。
それを思い出した。
2015という数字は2014よりもしっかりしていて、
もう随分前から2015だったような気がする。
またしても区切りというものは
そのように数字を持って
私の目の前に現れる。
ものさしの目盛りを読むようなことを
本当はしたくないのだ。
無為であることが明らかになることを
私は怖れているのだろう。

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ローム

年末からイタリアに行っていた。
私にとっての正月の形
すなわち何かとの関わり合いというのは
十分に損なわれつつあるので、
どのような場所にいても構わないと
この頃は思っている。
しかし、ローマに着いてしばらくしてから
高熱を出してしまって
ホテルで寝込んでいた。
「観光」というものに
思ったほど興味のない私にとっては
それほど痛手ではないが、
私はいったい何をしているのだろうか
という疑問と添い寝する年末年始となった。
それでも何とか少し街を彷徨って、
過去の物語をなぞってみたりした。
何千年も残って
私に見える物は
石ばかりだった。
石以外のものは何も見えなくなってしまう
それが事実だった。

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サンタクロース

つい最近、
サンタクロースというものを
信じるようになった。

小さい頃は獅子舞の獅子にようにしか
思っていなかった。
親も、サンタクロースがプレゼントを
持ってくるなどと言ったことはなかった。
クリスマスというものは
秋祭り的な何かだった。

しかし、ふと気付いたのだ。
サンタクロースは「概念」なのだ。
サンタクロースの姿形は象徴なのである。
たいせつな人がいる人たちはみな
贈り物をしたいと思っている。
それはつまり、
サンタクロースから委託されている。
下請けなのである。
あるいは、そう思った時点で
サンタクロースそのものだと言っても
間違いではない。

リアリティの海ばかりを泳いでいると
概念の世界を忘れてしまう。
それはよくないことだと思う。

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装う

冬は装いの街。
風が吹けば風の
しんと冷えればしんとした
装いが街を流れてゆく。
喫茶店でひとり
珈琲の黒い表情を伺って
それを見ていた。
暮れてゆく街には
つがいの人達が多かった。
通りの向こう側のパブは
午後の早い時間から開いている。
正しいな、と思う。
夜は、誰のためにあるわけではなくて
誰ものためにあり、
そして人々は
眠りに落ちなければならない。
そこの角で誰かがアコーディオンでも弾けば
パリのようだろうか。
パリに行ったことはないのだけれど。

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たいせつなもの

私が大切だと思っていることを
ほかの人が大切だと思っているわけではない。
私が好きなものを
ほかの人が好きなわけではない。
私が好きな人が
私を好きなわけではない。
私は私の世界を生きており、
ほかの人の世界とは重なっていない。
そういうことを
時々忘れてしまうのだけれど、
冷たい夜にはそれを思い出す。
人は自分にとって大切なものを
共有したいと思うものなのだろう。
共有することの効果を
確かめたいと思うのだが、
ほとんどの場合それは失敗する。
きっと私がとても微細な点を
大切なものとして切り取っているからではないか
最近そういうふうに思う。
しかし、アイデンティティというのは
そうあるべきではないのか、とも思う。
いや、そういうことを口にすることがすでに
異端者としての形状なのである。
人々は私に話しを聞いて欲しいと思ってはいるが、
私の話を聞きたいとは思っていないのである。
そういった絶望がここそこにある。
いや、それもたぶん
よくある当たり前のことなのだと思う。
世の中には噂話と誤解しかない。
あらゆるものは写像なのである。
しかし小事は大事である。
明けてゆく空は赤く焼けていた。
地球の大気を長く通り抜けてゆく間に
光はその成分の多くを失って赤になる。
損なわれたものの美しさは哀しいものなのだ。
そういうことを私は確認する。

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