具現

街で豆苗を買った。
エンドウ豆の若菜である。
パッケージには
切り取った後の根を水に浸しておくと
もう一度生えてきます
というようなことが書いてあった。
それでバットに入れておいたら
生えた。
緑色の葉がふたたび
同じように伸びてきた。

小さい頃、植物が好きだった。
見るのではなくて育てるのが。
それを思い出した。
多年草ではなくて一年草が好きだった。
種を蒔いて水を与えると
芽が出て
ぐんぐん伸びて花が咲く。
当たり前のことだが、
私はそれを当たり前のことだとは思っていなかった。
だって、小さな種のどこにも
葉や茎や花が収まっているわけではなくて、
それを後から与えているわけでもなく、
ただ水を与えると
どんどん空に向かって増殖する。
何も無いところから、現れる。
私にはそういうふうに見えた。
勿論図鑑などで細胞が増殖するメカニズムを
知ったりはしたが、
いったいそんな知識がなんだろう。
どう見てもそれは、無から現れているとしか
私には思えないのだった。
それが不思議で
繰り返し、繰り返し、種を植えては水を与え
伸びてゆく植物を
驚きと恐怖の入り交じった気持ちで
ぼんやりと眺めていた。
そう、本当は植物が好きなのではなくて、
どこからかそれが現れるということが
何度見ても魔法のように
尋常ではないことに思えて
ただ見つめてしまうのだ。

質量は保存されている
そういう法則があるということは知っている。
地球という星、あるいは宇宙にある素材で
それは出来ていて
そしてまた素材に戻るのだろう。
しかし、なぜ「生」という形で
一時的にこの世界に現れるのだろう。
植物ばかりではなくて、人もまた同じ。
何も無いところから現れて
増殖し
そしてまた消えて無くなる。

わたしはどこまでも不思議で、
飽きること無くそれを見つめてしまう。
もちろん私も、一時的に現れたもののひとつである。

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投棄

このゴミを出した方はお引き取りください。
と書いた黄色い紙が貼ってあった。
集積場の前にそのゴミ袋はぽつんと置いてあった。
見覚えがあった。
それは数日前に私が出したゴミ袋だった。
黄色い紙には細かいチェックシートが付いていて、
混合ゴミです。
乾電池は有害ゴミです。
分別してください。
というところに赤いペンでチェックが入っていた。
私は周りを見回してから
そっとゴミ袋を持って部屋に帰った。
中身を出してみる
古い鍋、硝子の花瓶、大量のフロッピーディスク、
使えない筆記用具、動かない電卓、いらないCD-Rとケース
そういったものの中に、
昔のMDウォークマンの小さなバッテリーケースがあった。
中を開けると、単三電池が一本入っていた。
ゴミの中にそんなものが含まれているとは
自分も気付かなかった。
しかしこれを発見するなんて、中を開けて
細かく吟味しないと分からないはずで、
ゴミ収集人がいちいちそんなことをしているとは思えなかった。
いったい何故分かったのだろう。
何か電子的に探索する装置を持っているのだろうか。
それとも直感のようなものだろうか?
私は各ゴミを種類別に小分けし、それぞれを紐で結わえ、
慎重にゴミ袋に戻した。
混ざって見えないように。
勿論、乾電池とそのケースは取り除いた。
そして日が暮れてから
一階のゴミ集積場に持っていった。
棄てるのも棄てられるのも
手数が必要なことだ。

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五の月

moon

ヴェネツィアでは猫をあまり見ませんでした。
それは猫がいないということではなくて、
単に私が出会わなかったということです。
水辺に佇む猫は魚のことを考えるでしょうか。

五月というのは
今年になってから
五番目の月だということで
一年という時間がもう半分に近いくらい
進んでいることに
私はずいぶんと驚いています。

いつの間にか月は丸くなっていて、
明るく空に昇っているのです。
私はヴェランダからそれを見上げていました。
風の強い日でした。
南風になったり
北風になったり
めまぐるしく風向きは変わって
そのたびに違う部屋のカーテンを膨らませました。
通り抜けていることは
確かなのです。

私は部屋を少し片づけました。
何袋ものごみを集積場に運びました。
そうして私が作ったものは余白です。
余白を持つことが私には必要だと思います。
余白を設けることによって
想像というものはできるものなのだと
私は知っているのです。

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無題

特に何というわけではないが、
このところ
あたふたとしている。
あたふたとした毎日である。
言葉が少ないことは
よいことではないと思う。
そうして春の中である。

たくさん持っているつもりはないけれど、
日々、少しずつ持ち込んだものは
堆積する。
そして棄てるのが億劫なほどになる。
そういう状態になると、
何かを探すことが困難になる。
見当たらないことが多くなる。
何処かに埋もれているのは確かだが、
何もかも発掘しなければならなくなる。

行く先の道が細くなり、
脇道が少なくなり、
選択肢というものが極端に減ってゆくと、
無駄な荷物は
いや今まで必要だったからといって、
これからも必要なわけではないだろう。
おろして行った方がいいのだ。
山道を
登ったり下ったりする時には
荷物が少ない方がいいのだから。

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はざま

季節の隙間に
落ち込んだような気がするけれど、
冷たさと
暖かさが出会うときには
穏やかではいられないものなのだろう。
私は争い事が好きではない。
しかし、それを避ける手立ても
持ち合わせてはいない。
ただじっとして
通り過ぎるのを待つだけだ。
どうにも
何も変わることはない。
いや、変化すれば関係も変わっている。
たぶんそうだ
としか言うことはできない。
ずっと同じだ。

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ふちのこと

携帯する機器で大切なことは
「ふち」なのではないかと、この頃思った。
スマートフォンのために
ずいぶん剛健な感じのケースを買って、
それを取り付けて使っていたが、
これは違うというような気持ちが
毎日蓄積されていって、ある日とうとう嫌になった。
それで、私はケースを外してみた。
そして気付いた。
滑らかに優しい角度で加工されたふちに。
私は今までこの美しいふちに
手をかけることなくこの機器を使っていた。
それはとても勿体のないことだった。
この感触こそがデザインというものだった。
私は感触というデザインを無視していたのだった。
ケースを付けていては分からないことが
私には分かるような気がした。
そのような対話もあるのだと思う。

私はいつもふちを歩いている。
大切なことはふちの周辺にあると思う。
あらゆることがそうである。

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散らない桜はないだろう。
強い風に巻き上げられて
高く、高く飛んだピンク色の花びらが
部屋の奥の方まで入り込んでいた。
あれこんなところにまで
私はてのひらに花びらをのせて
息を吹きかけてみる。
ずうっと昔、
田舎に居たときは
桜をそんなに特別扱い
していなかったような気がする。
春の花々のひとつとして。
焦点を絞って注目することは
まるで恋のような効果を生むけれど、
散ってゆくときも
まるで恋のような効果を生むのでは
ないだろうか。
ここ数年は、あまり心の多くの部分を
桜が占めないようにしている。
高い建物の上から
街にふわふわのピンク色が
点在しているのを遠く眺めるくらいが
私にはいいようです。

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タイプライター

タイプライターが好きだった。
段差のあるキーを
指を立てて打刻するときの
あの感じが好きだった。
英語が好きだったわけではなかったが、
中学生のとき、
英語の勉強に大変効果的
などという宣伝文句を親に投げて
自分の元に呼び寄せたのだ。
なるべくキーが重いものがよかった。
それはイタリアのピエモンテ州にある
オリベッティという会社の
Lettera 52という機種で
大変美しい機械だった。
わたしはそのタイプライターで
タイピングを覚えた。
コンピューターのキーボードではなかった。
手探りで
ホームポジションからの
インターバルを覚え、
時には部屋の灯りを点けないで
キーを打つ練習をした。
何か目的があったわけではない
ただキーが打ちたかっただけなのだ。
理由などいらないのが
若さというものでしょう。
しかし、キーを打ちたいという欲求は
未だに変わってはおらず、
実はその想いだけで今の仕事を続けている。
Lettera 52は上京する時に連れてきたが、
その後、知り合いに譲って、
今は行方がしれない。
時々、あのタイプライターの感触を思い出す。

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単なる電気信号

この頃はネットの中にも桜が咲いており、
私はネットの中で花見をする。
散らない桜はないのであるが、
ネットの中の桜はいつまでも咲いている。
いつまでも色あせないということは
とても素晴らしいことであるが、
ある程度の気味悪さを含んでいる。
技術というのはいつまでも進歩していて
よかったと思う。
画素数はどんどん増えて高密度になり、
昔の画像が粗く見えるからである。
それはひとつの風化に見える。
そういうことがせめてもの救いだと思う。
ローマに行ってコロッセオを見ると
下の部分は頑丈なコンクリートでできているが、
上の部分はレンガが積んである。
後で注ぎ足したものらしい。
紀元前にはコンクリートで頑丈な構造物を
作る技術があったのだが、
後に技術が失われてしまったので、
全て壊さないで千年も後に軟弱なレンガで
増築したのだそうだ。
技術が後退するだなんてそんな
何て恐ろしいことなのだろう。
しかし、もしかするとまたそんな
時代が来るのかもしれない、と少し思う。
広くまたは狭く。

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ひとつだけ

春ですか、そう訊くと
そうじゃないの、と誰かが答える。
季節の区切りは明確ではなくて
ぼんやりしたものである。
わたしは明解さを学んできたが
世の中というのは本来
不明確なことでできているようだ。
ある日、
ある公園の
ある桜の木で
花びらが五つ開くと
東京が開花したことになるのである。
それはなぜか。
そう決めたからである。
決められた事を求め
決められた事に安心する。
それが我々というものなのだろう。
空気が乾燥すると
空が青いのですよ。
予報士はラジオの箱の中で
そんなことを言う。
わたしは窓を開けて
空を見るのである。

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