詐欺師

人を騙さなければ世界は成り立たないようだ。
国家も政治家も、テレビもメディアも、
金のためにあらゆる人を騙す。
どんな技術を持っている人格者でも、
身近な金持ちを騙して金を奪う。
もしかすると、随分昔から
そうだったのかもしれないが、
私はそのことに気づいてはいなかった。
人は嘘をつくことを知らないで
生まれてくるのだという。
しかし、四歳になるころに嘘を覚え、
少しづつ嘘の効果を学習するらしい。
人は嘘を覚え、嘘を使いこなすことによって
この世界を作ってゆく。
確かに、私も、私を騙しているのかもしれず、
嘘のない世界がどこにもないことに
絶望しつつ納得するしかないのである。

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リズムのひみつ

邦楽は一拍目と三拍目に手を叩き、
洋楽は二拍目と四拍目に手を叩く。
重心が頭にあるのか後ろにあるか、
それだけのことだった。
ミッシェルポルナレフの
「シェリーに口づけ」を気に入ったのは
小学一年生の頃だったが、
なぜ、それがそんなにも好きだったのか、
気付くのに五十年かかった。
日本人はどうやっても頭重心に
なってしまうので、ほとんどの
日本の音楽がそうなっており、
洋楽は全く逆になっている。
逆さまであるということに違和感なく
馴染んでしまい、気づかないが、
好きなのは真逆な方であり
それはたぶんリズムのせいだったと
いうことなんだと思う。
これが昨年末のとても大きな気付きだった。

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アナログ

技術者は常に安定した結果を求める。
故に現在のディジタル技術は
どんな時でも誰がやっても
常に同じ結果が得られるように
設計されていて、実際そうなる。
音楽のプレイリストもそうで、
誰が作って誰が再生しても同じになる。
しかし「同じ」ということが
「すばらしい」と思える期間は限られていて
だんだん「つまらないな」と思うようになる。
そう
そこには「個性」というものが無いからだ。
どこのセブンイレブンにも
同じおにぎりと同じ飲み物が置いてあり、
それは安心で便利ではあるけれど、
わくわくしないし、面白くもないのである。

先日、カセットデッキを修理した。
オーディオカセットデッキというのが
正しい呼び方だろうか。
「カセットテープ」というものを
見たことがある人は少なくとも
三十歳は超えており、
使ったことのある人は四〇歳を
超えているだろう。
自分は二十六年程前に買った
カセットデッキを持っている。
カセットデッキの販売を各社がやめる頃に
買ったので最終版的な機種である。
もう何年か調子が悪くうまく再生できなかった。
テープの走行がおかしくて、再生すると
ぐちゃぐちゃに絡まったりしていた。
途方に暮れて何年も放置していたが、
個人で修理している人をネットで見つけて
直してもらった。
メーカーではないので、うまく直るかどうか
そのあたりはかけである。
テープを送り出すピンチローラーや
キャプスタンモーターやベルトといった
駆動系は機械の領域だし、
モーターの制御や磁気ヘッドからの
信号の調整はアナログの電子技術だろう。
複雑で難しく出来た装置なのである。
今のところ、正常に動作している。
カセットテープに録音して聴くということは
アナログなことである。
色々な要素を調節しなければならない。
テープの特性に合わせた調整、録音レベル、
タイミング、曲間の空白時間など
つまりこれは「レコーディング」なのである。
誰がやっても同じにはならない。
そういうことがアナログオーディオの
愉しみなのである。

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距離感

この頃は以前に比べて車によく乗る。
車を小さくしたことによって
取り回しがよくなった、
ということもあるが本当のところは
人混みが嫌いだからである。
コロナのせいで減便したままなのか
電車はいつも混んでいるような気がする。
人の流れに乗り、人を避けながら
すいすいと歩ける人ならばよいが、
田舎育ちのせいか私は、のろまで
人を避けて歩くだけでくたびれる。
知らない人が至近距離に居るのもそう。
自転車も同様に何かを避けながら
乗らなければならない乗り物だし、
そうなると車が一番楽なのである。
鉄とガラスでできた箱に守られていて、
他人とは隔てられている。
しかし、この頃の問題は
法律の改正によって自転車が
車道を走るようになってしまったことだ。
車は左端を走る自転車を避けながら
走らなくてはならない。
私はなるべく左車線を走らないように
車を運転する。
近くてもすぐに高速道路に乗ってしまうのも
そのせいだ。
そう考えると、そもそも私は
都会に向いてなかったのではないかと
都会で四十年も暮らしてから思うのである。

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奥の手

スーパーの豆腐売り場ではだいたい
おばさんが手を突っ込んで
奥の方の豆腐を取り出そうとしている。
今日食べるのに
消費期限が長いものを求めて
ストレッチすることは
無駄な労力ではないのか。
奥から手が出て、おばさんの手を握るような
仕組みになっていると
面白いかもしれないと思いながら
それを見ていた。

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風の音

風に音なんてなくて、
風が吹くことによって震える何かが
音を出している。
だから、それを聴く人がいる場所によって
風の音は違うのだと思う。
田舎に居た頃の風の音は
森の木々が揺れる音で、
そして井戸端にかかっていた鏡が
カンカンと柱を打つ音だった。
眠りの奥の、深い場所の音だった。
今は、マンションの壁を吹き抜けて
ごうごうとただ鳴る音なので、
今、私の風の音はあまり面白くない。
よい風の音がすることろに
行きたいと思う。

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口コミ

「口コミ」というのは「口込み」と
書くのだろうと勝手に思い込んでいたが、
「口コミュニケーション」の略だそうだ。
マスコミュケーションと対比した言葉で
1960年代に作られた造語だそうだから
そんなに古い言葉ではなかった。
この頃はその「口コミ」という言葉も
あまり使わなくなった。
恐ろしいことにSNSのせいで
ほぼなんでも「口コミ」になってしまった。
マスコミでさえ、取材元がSNSだったりする。
しかしSNSも企業によって情報操作されて
いることを考えると、純粋な口コミではないが。
人は自分の信じる人が言うことを信じる。
たとえその人が間違っていることを
伝えていたとしてもそれを信じる。
それが今の世界を作っているのだろう。

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大きいと小さい

しばらく前に小さい車に買い替えた。
それまでは、排気量が大きい
セダンに乗っていたが、取り回しが重いのと
燃費もよくないので、イタリアの小さい車に
乗り換えた。
今までの排気量の三分の一で燃費もよい。
窮屈だとかパワーが足りないだとか
レビューでは言われているが、
車と人との関係性というのは、
しういうことではなかった。
呼吸が合うかどうかなのだと思う。
しかし、面白いことに、
この小さな車で走っていると、
よく大きな車に煽られるようになった。
前の車の時にはほとんどなかったが、
この車だと、大きなワゴン車がギリギリまで
詰めてきたり、高速道路で前方に
無理やり割り込まれたりするようになった。
またひとつ人間の愚かな特性が
よく見えるようになった。
大きなものは小さなものをぞんざいに扱う。
意識的にせよ無意識にせよ常にそう。
中に乗っている人には無関係に
ただ大きいか小さいかだけでそうなのである。
たぶんそのように遺伝子に刻まれているのだろう。
つまらないことだ、いつもそう思う。

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民意

二千二十年を超えたあたりから
何故だか私は年がよく分からなくなった。
今年は果たして何年だったっけとよく思う。
そもそも二千年というものは
宇宙を旅するような年だと小さい頃から
思っていたから、
私にとっては夢の時代なのである。
しかし、その夢の時代にテレビを点けると、
戦争と災害と汚職のニュースで
埋め尽くされていて、幸福な光はどこからも
もれてこないのである。
これはいったい、とういうことだろう。
科学がいくら進歩しても相変わらず人は
人の頭の上に爆弾を落とし、
人々は古い建物に住み、政治家は金を
ばら撒くことで人の支持を得ようとしている。
どこかで、私たちは間違ったのか。
いいや間違ってはいない。
根本的な人間の特性というものを
どのように制御するかということを
誰かが考えてくれるだろうと思い込んで、
自分は自分の仕事の事だけを考えていたから、
こんなことになっているわけで、
それは当然のことだろう。
代表者というのは「点」である。
面ではなくて点で支えられているのが
この世界のありようだとすると、
大昔と何も変わりはしないのである。
そういうことが分かってきた。

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老人の発見

ときどき立ち飲み屋のカウンターなんかで
格言めいたことを大声で語る年寄りがいた。
歳を取るとあんなふうになるのか
嫌だなぁ、あんな年寄りにだけは
なりたくないものだと思っていた。
そして年月が過ぎて自分も歳を取る。
いつまでも若くはないのである。
歳を取ってみると、あの年寄りの気持ちが
とうとうわかってくる。
年寄りも新しいことを発見するのだ。
若い頃と同じように
そうか世の中はそうなっていたのかと
初めてわかって、驚き、納得して、
それを誰かに言いたくなる。
しかし、年寄りよ、それはあなたの歳になって
それまでの経験もあって
初めてわかった新しいことなのであるから、
若人に話しても通じることはなく、
ただの格言めいた決めつけに聞こえるのだ。
だから若人よ、そういう年寄りに会ったら、
「そうですか、わかってよかったですね」
とでも言ってあげよう。
年齢も価値観も違う人に自分がわかったことを
正しく伝えるためには相当な技術が必要で、
作家になるような訓練が必要だろう。

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