回転

レコード盤をターンテーブルにのせて
スタートボタンを押し、針を落とす。
それから、ソファーに座って本を読み、
およそ二十分かそこらの後に
私はまた、レコード盤をターンテーブルの
上でひっくり返したり、取り替えたりして
同じように回し、針を落とし
それからまたソファーで本を読む。
そういうことを繰り返していた。
レコード盤は右回りに回っていて
針は内側に向かって進む。
右巻きの渦を音に変えて行く針の音とともに
私は文字をトレースしている。
どんなことも
身体的な感覚を持って進めることで
もう少し意味のあることになるのではないかと思う。

今日はあまりに黒い雲が南の空に漂っていた。
私は窓越しにそれを見ていた。
六月は祝日が一日もない。
そういうことを嘆いてみてもしかたがないので、
自分で祝日を作った。
地引き網のように北の空気を囲う前線の帯は
日本の形に伸びている。
ベランダに洗濯物を干したけれど、
すぐに雨が落ちてきたので、取り込んで
部屋の中に吊している。
天井に煌々と輝く照明をつけるのは
あまり好きではない。
元来、薄暗いところが好きなのだ。
暗いところではなくて、薄暗いというところが
重要なところだと、分かってくれるだろうか。
梅雨のことを嫌悪してはいない。
雨の日に適切な靴を持っていないだけだ。

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入梅2015

梅雨に入ったとみられる。
またしても予報士は長方形の窓の中で
そのような微妙な言葉を発していた。
季節というのはいつだって
何となく始まるものなのだろう。
肌に触れる空気は重さを増していて、
ベランダに立つ私に絡みついてくる。
六月の憂鬱は森のように広がっていて、
私はぽつんとそこを歩いている。

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水無月

薄く開けた窓の隙間から
水無月なりの冷気が流れ込んで
部屋に展開していた。
薄いタオルケットだけで眠っていた私は
寒さで目が覚めた。
足を擦り合わせて暫く耐えていたけれど、
別に耐える必要などないのだと思い立って
起き上がって毛布を引っ張りだし
それにくるまった。
足を温めると
幸福が私を満たしてゆくのが分かった。
そう、幸福とはこんなにも
簡単なことだった。
誰の手も借りる必要がない。
そう思いながら再び眠りに落ちた。
眠ることに恐怖が伴わないのは
また目覚めるということが分かっているからだろう。
或いは信じているからだろう。
そんな保証などないのだけれど。

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グリンピース

空気はネクターのようにねっとりとしていて
また雨の季節が近づいているのだと知る。
月は丸さを取り戻しつつあり、
薄い雲の向こう側から私を覗き込んでいる。
野菜の値段は高くなったり
安くなったりして、
それが天気に左右されているのだと分かる。
生きているものは、工業製品のように
作ることはできないのだろう。
春が熱に冒されて去る前に
グリンピースのご飯を作りたかったが、
スーパーのどこにも
今年のグリンピースは存在しなかった。
野菜の旬というのは
人にとっては僅かな時間の隙間なのだろう。
私は仕方なく
綺麗に磨かれた硝子の向こう側の
冷酷な世界からグリンピースの袋を取り出して
オレンジ色の籠に入れた。
私にとって冷凍食品はいつも
思いつきで買って、ろくに使わないで
冷凍庫の中で乾燥する運命にあるのだけれど、
これはすぐに使うつもりだから
よしとしようと私の中身が言った。
深夜のスーパーはほとんど人がおらず、
冷気に満たされ
ただ煌々とそこに存在していた。

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空の星

オリオン座はいつの間にか
見えなくなっていた。
季節が進むと
見えなくなるものがあるということを
私は知ってはいるが、
それもまた実際不思議なことだと思う。
相変わらず夜のベランダは
風が吹いていて
少し冷たくなっており、
私が居てもよい場所だった。
何もかもがこうして変わって行くのだから、
人の心というものも
変化して行くのが自然なのだろう。
目に見えるものが変わることは
当たり前だと思うけれど、
目に見えないものが変わることもまた
当たり前なのだと思う。
強い人、というのは確かに存在していて
時々私は出会うけれど、
彼らはその想いをとても不自然に語る。
それは内側から働く力であるから、
外側から強く押されているものに
対抗していることが明らかなのに。
彼らは戦っていないふりをする。
それがとても気取っていると私は思うけれど、
実はそこに惹かれるのかもしれないと思う。
「はしょればいいんだ」
ある日彼はそう言った。
はしょり方が分からないから
はしょれないんですよ。
私はそう叫んだけれど、
彼の耳にはもう、届かなかった。

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灯り

少しだけ明るい電球に変えてみた。
ただそれだけで、ずいぶんと世界は
違って見える。
目に見えるものの色というのは
すべて電球が放つ光の中に含まれている。
ものはただ光に対する素性をあらわにするだけで、
「色」というものがそれ自身に含まれてはいない。
全てを含んでいるものが
このまるい硝子の玉の中に閉じ込められていると思うと
電球というものが
とてもいとおしく感じられる。

耳を澄ませばよいと思う。
よく聴いて、そして自分の中の何かに
反応するものだけを捕まえる。
たぶんそれが自分を表すものである。
ちゃんと選ぶということが
自分を見失わないことなのだと
この頃思う。

ゼロというのは箱ではなくて
オフセットなのだ。
すなわちある地点、開始点の位置。
ゼロという箱はないが
イチという箱はある。
イチというところまで到達してはじめて
それまでの軌跡を箱としてもよい
ということになるのだ。
箱を生み出さなければならないと思う。

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風音

木々が無ければ風の音はつまらない。
木の葉が奏でる風の音はざわざわとして
それはまるで合唱のようだ。
ひとりで口笛を吹く孤独とは違う。
猫が見ているものは
現実に見ることができる風景ではなくて
脳の内側に影絵のように映ったものではないか
そんな気がする。

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パスポート

どこか遠くにゆくためには
確かにここに居るという証が必要なのだ。
そのために私は
十年間で一万六千円の金を払って
赤くて四角い冊子を手に入れる。
どこへでも行けるということが、
すなわち宇宙的な自由ではなく、
限定されることが自由なのである。
二股に分かれた
遺跡のようなビルは観光名所になっているのか
背の高い外国人が
日本製のカメラをぶら下げて
吸い込まれて行く。
先週、申請に来たときよりも街路樹の緑が濃くなった。
そんな気がする。
帽子を取ってお顔を見せていただけますか
係の女性はそう言って私を見た。
私の人相は新しい旅券によって確認された。

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Sounds good

LUXMAN L-550AX

しばらく前にオーディオアンプを新しくした。
以前のものは棄てた。
それは阿佐ヶ谷の駅前にあった電器屋で
確か三万円台の後半くらいの値段だった。
私は音楽に頼って生きている。
そういうことをふと思い出したのだ。
いつまでも時々左右の音が出なくなったり、
ボリュームがガリガリといったりする
そんなアンプを使い続けてはいけない。
それが重要なものならば。
生命というのは節約できないのだから。
そういうふうに思った。

よい音、というのは人によって違う。
それはとても個人的なものだ。
ノイズが少ないことではない
高域が素晴らしく出ることではない
私にとっては。
まるく、ふとく、のびやかな
音がすることなのだ。
そういうアンプを買った。
たぶん楽器を買うようなつもりで。
宅配便の若い青年は横縞なポロシャツを着ていた。
「んぁっ」
アンプの箱を台車から降ろす時、
彼は妙な声を出した。
「重いっすよこれ」
確かに、箱に入っている状態では
二十八キログラムくらいあるからな。
私は何も言わず伝票に印鑑を押した。

ひとりで設置するのはなかなか大変だった。
こういう時、限りなくひとりである。
しかしそれは美しい音を持っていて
わたしをねぎらった。

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風呂場の鏡は
世界を正しく映してはいなかった。
鱗状に水垢が付着して
それは白濁していた。
そのようなことを憂えている人々は
電子の森の中には沢山いて
ある者はクエン酸がよいと言った。
それで私は街でクエン酸の粉末を買ってきて
水に溶かし
キッチンペーパーでパックしてから
流して見たけれどあまり変わらなかった。
うそつき。
またある者はアルミホイルがよいと言った。
それで私はアルミホイルをくしゃくしゃにして
水に濡らした鏡を擦ってみた。
クエン酸よりましかと思うが、
期待したほどではなかった。
うそつき。
そしてまたある者はダイヤモンドパットがよいと言った。
私はアマゾンでそれを買った。
人工ダイヤモンドの粉末(?)を仕込んだ
スポンジのような研磨パッドである。
水に濡らした鏡を擦ると、かさかさとした
鏡の表面が滑らかになってゆく感触があった。
だいぶん改善した。
鏡はまた世界を映し始めた。
ほんとうを見つけた。
しかし、乾いてみると、完全にとはいかず、
少しまだ水垢が残っている。
私は風呂に入る度に鏡を磨いている。
私を映すものを磨くことで、
私と私のコピーとの関係が変化する。
それはいいこと、であるはずだ。

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