葉月

およそ三十くらいの数字が書いてある
紙をめくると
八月の世界が目の前に現れる。
そこにはエジプトの猫が佇んでおり
足をそろえて海を見ている。
いや、人を見ているのかもしれない。
魚を探しているのかもしれない。
夏は塩の匂いの中に溶けている。
オゥガスト
待ち望むことはもうなくなってしまったが、
青くて広い海を
波の音を
聴きたいとは思う。

目が覚めると私はかわいている。
冷蔵庫から炭酸水の入ったボトルを取り出して
グラスに注ぐ時
はじける音とともに
ゆうべの夢が薄くなってゆく。
満たされたい、と私は思っているのだろうか。
人のことも、自分のことも
何も分からない。

自分にとって
よくないものや人を排除することに
躊躇してはいけない
というような一文を目にして。
ほんとうにそうだとも
そうではないとも思わないのは
そのようなことを考えたことがなかった
ということなのである。
そう、排除することなど考えていないのだ私は。
排除されることは考えても
自分から取り除くことは考えていない。
そういうことか。
と私は思った。

カテゴリー: 諸行無常 | 葉月 はコメントを受け付けていません

いくつもの蝉の林を抜けて
もくもくと高層に伸びる入道雲を見る。
ひぐらしの時間
色づいた綿菓子は崩れつつある。
まもなく闇のカーテンが引かれるのだ。
君は雷鳴を聞いただろうか。
ネクターの空気の中を
通り抜けてきたのだ。

取り壊された建物の跡地は
公園のようになるらしい。
田山くんが言っていた。
彼の言ったことが本当になる確率は
いつも半分くらいなのだけれど
そうなんだ
彼は笑っていた。
公園のようになるということが
可笑しかったのか、
私が可笑しかったのか
分からないが。

タイマーを使って
冷房装置を起動するようにすると
オアシスという言葉を
使ってもよいような気がする。

人は何かに依存していた方がいい。
恋人なのか、親なのか、家族なのか、
猫なのか、犬なのか、
音楽なのか、文学なのか、
組織なのか、社会なのか、
知らないけれど。

カテゴリー: 諸行無常 | 蝉 はコメントを受け付けていません

夏はどうか

子供のころ、私は夏が好きなんだ、と思っていた。
しかし、そうではなかった。
私は「休み」が好きだったのだ。
当面学校に行かなくてよい、ということが
夏に対する感謝のような気持ちとなって
夏が好き、というような
短絡した表現となって表面化したのだろう。

熱交換器がなければ
年寄りには命の危険さえある
まるで砂漠のようなところ。
そんな街に私は暮らしている。
私が選んだのだ。

不平不満や
苦しみや悲しみよりも
音楽だ。
すべて音楽に埋めてしまえ。
叫びというのはそうやって折り畳む。
そういう思いは子供のころから変わらない。

何かが過ぎるのを待っていると
何かが近づいてくるのが分かるのだけれど、
それはたとえば電車に乗っていることに似て
降りる駅のことばかり考えている。
ただ外を見ていればいいのに。

カテゴリー: 諸行無常 | 夏はどうか はコメントを受け付けていません

波紋

天気図から前線が消えている。
せめぎあわない世界。
ストレスのない世界でもあるが、
際限なく押し進めてしまう
ということでもあるだろう。
それにしても、天気を「図」で表すことを
始めたのは誰だったのだろう。
それは気圧の波紋でできている。

石を投げ込んでできる波紋のように
何かを静かなところに投げ込んで
その波紋を記すのは面白いだろう。
しかし、その意味について考えて
収束させるのは難しい。

様々なことの境界線に折り目をつけて
順番に折り畳み
もうこれ以上折り畳めないところまで
集約する方法もあるだろう。
しかし、それには沢山の境界線を見つけなければ
ならないし、労力が必要だろう。

いずれにしても私はただ眠いのだ。
夕食の時に、青色の瓶に入った
麦酒を飲んだからだけではないだろう。
人々は自分の傲慢さを
正当化するテクニックばかりを学んでいる。
勿論わたしは
あなたにとって何でもない。
何事も空を眺めて生きてゆけばよい。
等圧線は見えないけれど。

カテゴリー: 諸行無常 | 波紋 はコメントを受け付けていません

ディスクリート

梅雨は明けたとみられる
予報士はまたしても曖昧な言葉を綴った。
しかし灼熱は確かにそこここにあって
ガス入りの水が似合う季節になっている。

星には星の軌道があって
それを進まざるをえない。
離れたり近づいたりするのは単に
軌道が重なるところがあるという
ただそれだけのことだろう。
同じ速度で同じ方向に進んでいるように見えても
わずかに速度は違っていて、
時間を重ねると随分と差がついている。
そんなものだ。

真夜中にタクシーに乗ると
窓が開いていて冷房は入っていなかった。
暑い夜だった。
空気の入れ換えをしているのかな
と思ったけれど、いつまでもそのまま走り続けた。
耐えかねて言おうかと思った時、
車は公園の側の道にさしかかった。
開いた窓から盛大な蝉の鳴き声が流れ込んできた。
こんな夜中に蝉が鳴いている。
遠くでカナカナと鳴くヒグラシの声も聞こえてきた。
私は顔を上げて、公園の方を見たけれど、
黒で塗りつぶされていて、星のように浮かぶ外灯が
点々と見えるだけだった。
ただ蝉の声で満たされていた。
もしかしたら私は
これを聞くためにこのタクシーに乗り合わせた
のかもしれない、などと思ったが、
偶然とは想定の外側にあるもので
それが人を曲がり角に立たせるものなのだろう
そんなふうにも思った。

カテゴリー: 諸行無常 | ディスクリート はコメントを受け付けていません

こころ

暑いと感じているのは
心ではなくて、体である。
嫌だなと感じているのは
心ではなくて、体である。
悲しみを感じているのは
心ではなくて、体である。
喜びを感じているのは
心ではなくて、体である。
そういうことを分かっていないのは
体ではなくて、心である。
むりやり分かったふりをするのは
体ではなくて、心である。
体は心のいうことをいつもきいているが、
心は体のいうことをきこうとはしないのだ。
心だって
体の中で生きているくせに
わがままはいけません。

カテゴリー: 諸行無常 | こころ はコメントを受け付けていません

ぴーなっつ

深夜のスーパーには危険なものが沢山ある。
たとえばそれはお徳用ピーナッツの大きな袋である。
気付くと籠に入っている。
そんなものを買うつもりはないのだが、
そんなことを言わないで連れてってくださいよ
と、彼は言うのである。
私はリスではない。
たぶん違うと思う。
だからピーナッツを食べる必要はないのである。
しかし、食べる必要があるものとは何か
と考えると分からなくなる。
どんなものだって、食べる必要はないのではないか。
「わたしは生きるために食べているのであって、
 食べるために生きているわけではないの」
そう彼女は言ったが、果たしてそうなのだろうか。
何にでも「答え」みたいなものがどこかにあると
まだ思っているのは、教育の痛い痕跡である。
どんなに取り払っても、神経節の奥深くに潜んでいて
体が弱るのをずっと待っている。
あなたの思うことと、私の思うことが
どれだけ違っていてもかまわないのだが、
人は違っているということから、
劣等感のようなもののエッセンスを取り出して
頭から振りかけてみたりするのだ。
限定された自由の中を行ったり来たりしているうちに
人生というものは消費されるものなのだろう。
それにしても今日は、淡い夕暮れだった。
雲が薄く焼けるには風が必要なのだ。
そういうことがわかった。

カテゴリー: 諸行無常 | ぴーなっつ はコメントを受け付けていません

小暑

未来のことよりも
過去の方が増えてしまった。
笹舟に乗せて
川に流しても
きっと海までは辿り着かないだろう。
誰もがそんなことを知りながら
見送るものが夢だろう。
夢は見る物ではなくて
実現するもの、と誰かが言ったそうだが、
実現するものは果たして
夢と呼ぶのだろうか、と思ったりする。
いや、何かしらそこに
違う空気のようなものを感じるのは
私が前向きではないせいだろう、きっと。
問題を発見して改善する世界ではなく、
状況を改善するしかない世界に
住んでいる人々のことを考えてみたい。
そんなの勝手に想像しているだけで、
本当かどうか君には分からんだろう
彼はそんなことを言った。
そうしてまた私は口を閉ざし、
静寂を好むふりをするだろう。

カテゴリー: 諸行無常 | 小暑 はコメントを受け付けていません

私の使用法

気付くといつもベッドの上に戻っている。
たぶんここが定位置。
タイムマシンに乗って毎日
出掛けてゆく私を知っている。
歩いている私。
空を見上げている私。
仕事をしている私。
あなたと話している私。
暗い道を歩いている私。
喜んでいる私。
悲しんでいる私。
様々な私。
私は私に会いに行く。
しかし私は私を使い果たして
静かにここに戻ってくる。
探したりはしていない。
淡々と循環の中にいて
月がへこんだり膨らんだりするのを
視界の端にとらえながら
どうしようもない道を歩いている。
答えなくてもよい。
全ての言葉が問いではない。
取り出すのは幸福の断片であるべきだろう。
なぜなら取り出すのはあなたではなく
私なのだから。

カテゴリー: 諸行無常 | 私の使用法 はコメントを受け付けていません

夏ニ至ル

世界が夏に至った日
私は油の切れたギアを回転させて
坂道を登っていた。
空気は私に向かって流れていたけれど、
不必要な水分をたっぷり含んでいて
限定された範囲の未来について
憂いを感じなければならなかった。
それは所謂、地軸の傾きの問題として
片付ければいいことであるが、
ひとつの生命にとっての問題でもあった。
たとえ話が多すぎて分からないわ
と、彼女は言ったような気がしたけれど、
私はたとえ話なんかしていなかったのだ。
それはつまり行き止まりだった
というだけのことだった。
何事も今から思えば、であるけれど。
あらゆる記憶の断片が緑色に塗られているのは
単に私が公園のそばに住んでいた
というだけのことではないだろう。
幼い頃から緑色が好きだった。
果てしなく山の中に住んでいたにも関わらずである。
植物には緑色の血が流れている。
それが命の色であるならば、
我々人間はみな赤色の生物であろう。
電車はどこまでも走って、行き先も終着駅もない。
要するに環状になっているのだ。
誰もが途中下車をして、二度と乗り込んでは来ない。
私はいつまでも
窓の外を見ていた。

カテゴリー: 諸行無常 | 夏ニ至ル はコメントを受け付けていません