博士

春の嵐になるでしょう
予報士はそんなことを言っている。
私は吹き飛ばされるものはなくて
私自身が空を舞うものであるから
怖れはないのだけれど。
人の幸福とは
いかに繋がるかということです
と、博士は画面の中で言った。
でも先生、私はそんなこと
ずいぶん前から知っていましたよ
私は画面のこちら側で呟いてみるのだけれど、
彼には届かず
また新しい発見だと繰り返す。
この人もたぶん、あちら側の人だろう
そう私は思っている。
古いビニール盤に記録された
古い音楽を再生して
私は丁寧に珈琲を入れている。
孤独はいけません、孤独は寿命を縮めます
長寿の人は孤独ではない人のことです
博士は相変わらず叫んでいた。
そんなこと知っていますよ
問題はそこではないんですよ
私は私で叫んでみるけれど、
どこにも届かず金曜日は暮れていった。

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如月

二月になった。
冷たい季節。
しかし、今年は風の日が少ないと思う。
北に向かって漕ぐペダルが重くない。
それが私にとっては
救いである。
世の中には
大きな救いと小さな救いがあるが
私そのものが救いに変わる日が来るだろうか。
忙しい日々が続いて
通信販売で沢山音楽を買ってしまう。
誰の顔も見ないで
ポストに届く包みの中に
それは入っている。
輸入物のCDは
万引き対策なのかあまりに厳重に
包装してあって、開けるのが面倒である。
誰のための包装なのかといえば
それは私のためではないだろう。
音楽があってよかった
そう思うのは
小学生の頃から同じだ。
ミュージシャンは音楽を生産するのが仕事であるから
誰のために何をしているということはないのだろう。
仕事とはそういうものだろう。
しかし私は、音楽を届けるシステムが
この世の中にあるおかげで
なんとか今日まで生きてきた。
利害というものがすべて悪ではない。
私の音楽は知らないところから発送されて
私のポストに届く。
それは私が働いて稼いだ金で
稼働させることのできるひとつのシステムだ。

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零下

つめたい夜が続いている。
丸い月が冷えた街を暗く照らして
靴の音が変わったのがわかる。
雪など降って、
路面が凍結すると、
人と地球との関係は
あっという間に険悪になる。
その程度の危うさで
世界はできあがっている。
私はナッツの小袋に指を突っ込んで
塩気の効いたそれを
むさぼっているのだが
そろそろ自分のいやしさが
嫌になってくるころである。
あなたには私が見えますか
そう誰かが歌っていて、
声は聞こえるが姿は見えぬ
というのが正直なところだ
と私は思う。

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エンタングル

ひとりになりたいから旅に出る
と、その人が言うのを聞いて、そうなのかと思った。
私は旅に出なくても
ずっとひとりだからである。
もちろん人は、自分の思うように生きていれば
いいのであるから、かまわないのだけれど、
何かどこかが、私の中に引っかかる。
もしかしたら「ひとり」ということの定義
のようなものが、根底から違うのかもしれない。
距離を取りたいと
また誰かが言った。
言葉は事象の周辺をぼんやりとつつむ霧のようなもので、
そのものを射貫いてはいないのだ。
距離なんて、どんな時だって
遠いじゃないかと、私の中身が言う。
量子もつれがそこにあるのならば、
事象は時空を越えてしまうものなのだから。
そんなことを夜中に考えながら私は
洗濯機の糸くずフィルターを、
古い歯ブラシで擦っている。

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明け方

雪が降ったのだと予報士は言った。
わたしには見えなかった。
回転する洗濯機の鼓動を聴いていると、
朝は赤くやって来た。
焼却炉の煙は、
いや、蒸気かもしれないけれど、
まっすぐ昇ってゆく。
唇が外気を感じて、
言葉は失われたままだと気付いた。
さまざまな事は
同時に動いていて、
わたしもまたその
さまざまな事のひとつである。
本のページをめくるとき、
浜辺で美しい貝殻を
見つけたときの気持ちを思い出す。
耳にあてて聞こえるのは
風の音だったか海の音だったか。
もうずいぶん長い間
海に行っていない。
そもそもわたしは、
山で育ったのだから
わたしの中に海はない。
不足したものを補おうとするのが
人というものかもしれない。

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現実味

年が明けると
そこには新しい年の世界が広がっているが、
私には現実味がない。
ひとは常に明けており、
常に新しい世界が広がっている。
だから、何かが新たに明けた気がしないのだ。
それが、私にとっての現実味というものだろう。
そしていくつもの日々が
通り過ぎてゆくのを私は今までと同じように
どこか遠くで眺めているのである。
新たに手に入れるものと
新たに無くすもののバランスは
取れているのかどうか
少しだけ考えてみるけれど
金銭出納簿のようにそれが
付けられるわけではないことに
私は気付くのである。

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LP

この頃またレコード盤を聴いている。
時々、中古レコードショップに行って
古いレコードを買って来たりしている。
最近、アナログレコードが流行っているとニュースで聞いた。
新譜をレコード盤でも出すアーティストが増えているのだとか。
古いものをリマスタリングしてまたレコードで出すものもある。
いくつか買って聴いてみたけれど
それらは、どれもいまひとつであった。
処理がディジタル的なのである。
アナログレコードというのは制限が多いので、
何を聴かせたいのかという明確な意志がないまま
優等生的なマスタリングをすると
レベルの低い面白みのない音になってしまうが、
どれもそれであった。
単にメディアが違うだけで、アプローチが変わらない。
ディジタル時代のアナログレコードは死んだ音がする。
なぜ今、アナログレコードが聴きたくなったのかというと、
制限された世界の中で
何を聴かせるか一生懸命考えて出した結果
のようなものがそこに現れているからである。
もちろんCDだって制限はあって、
ダイナミックレンジをどのように圧縮するかだとか
そういう闘いはあるだろう。
それはそれでCDでの闘いでよい。
しかし私は、もっと狭い世界で作ったものを聴いて
制作者が何を聴かせたかったのかを感じたい。
レコードというのはそういう面白さがある。
単に前時代の今より音の悪いメディアではないのだ。

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睦月

この頃、突然日が暮れるような気がする。
以前からこのような日の暮れ方だっただろうか。
何だか時間の感覚がおかしくなったのかもしれない。
とにかく太陽をどぼんと沈めるように
日が暮れてしまうものだから
私は光と時間の感覚がつかめなくなってしまった。
そうして日が暮れた後に
南東の空を見ると、小さな光の点が
等間隔にあって動いている。
それは航空機の光である。
どこか遠くから飛来して、羽田空港に降りようとしている。
その光をぼんやりと見ている。
何十キロも離れた場所から放たれた光が
私の目を射貫いているのだから
それはとても不思議なことだと思う。

去年と今年の間に
どのくらいの段差があったのか
私にはよく分からないけれど、
人と会わないということが
私にとっての段差を示しているのかもしれない。
ふるさと、というものは消滅した。
私の遺伝子の上流にあったものは死に絶え
また下流にも存在しない。
そうやって関係というものは一方的に損なわれ
そして消滅する。
「田舎に帰らないのですか」
年が暮れる頃に時々訊ねられるが、
私には帰る田舎など無くなったのである。
そんな日が来ることを想定していなかったわけではないが、
それは火の落ちた線香花火のように
儚いものだと感じている。

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黒い海

「見当たりませんね」
医師はそう言った。
私は彼の手首に巻き付けられた
高級そうな時計を見ていた。
レントゲンの光を
遮るものはなく
黒い海が広がっていた。
「溶けたってことですか?」
「あまりありませんが、そういうことも考えられます」
断定しないのは
可能性を可能性のままにしておく
ということで
正しいことなのかもしれないが、
私は時々、断定することに憧れる。
ぼんやりとした気持ちのまま
青い空の下に出ると
バスを待っている人たちは
年末の顔をしている。
私は街に出て、レコードを買おうと思う。
この頃、古いレコードを買ってきて
聴くことが増えた。
古い音楽を、当時発売されたものの形から
取り出して聴きたいと思う。
音というのはとても不思議なもので、
そのままの形で保存することも
取り出すこともできない。
いつも何か違う形に変換してしまってある。
儀式のように
それを私は取り出したいと思う。

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stone

水の流れるところには石があるものだ。
それが自然なことかどうか
私には分からないけれど
私の中にも水は流れている。
先週の火曜日
夜中にやってきた腹痛は
そう簡単に去ってはくれなかった。
もしかして、これは駄目なやつではないだろうか
そう思って救急の車を手配しようかと思ったが、
予め医者に訊いてみた方がいいのかもしれない
そう思って、あちこちに電話しているうちに
少しだけ痛みが引いたような気がしたので、
タクシーを使った。
高度救急救命センターというところに
初めて入った。
六ミリ掛ける四ミリの石が
管の中にあります。
若い女性の研修医は言った。

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