おもちゃ

あまりおもちゃを持たない子供だった
と記憶している。
次男だったし、田舎すぎておもちゃ屋と
いうものがほとんどなかった。
隣町に行けばあったが、
父親は私が5歳の時に
トヨタのパブリカを買うまで
車を持たなかったので、
私は親と街に出かけるということもなかった。
それでも兄は不思議と
おもちゃをたくさん持っていた。
父か祖父か誰が買い与えたのか
分からなかったけれど。
私にとって、兄のものは兄のもので
私のものではなかった。
しかし、親は兄のものを共用すればよいと
思っていたようだ。
私は兄のものに触れたくはなかった。
その必要もなかった。
どんな木片も自動車だと思うことができたし、
爪切りが飛行機であると思うこともできた。
庭には美しい花が咲き
裏山には樹木がそびえていて
外の世界は不思議なことで満たされていた。
魅力的なものがたくさんあった。
私はそれで十分だった。
ぼんやりした子供だと言われていたし、
自分でもそう思っていたが
世界の不思議さに驚き
ただ目を見開いて静止するしかなかったのだ。
この頃、突然そんなことを思い出した。
たぶん
この世界の片隅に、という映画を
観たからだと思う。

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見えない世界

ソーシャルネットサービスというものが
私たちの目の前に現れて
もう随分長い時間が経った。
私はそれが好きで
ずっと昔にあったBBSのように
自分の持っている世界を
拡張してくれるように感じて
関わりあってきた。
しかし、どうもこの頃そうではなさそうだ
と感じるようになった。
そこには何かしらの意図が働いている。
自分で選択しているかのように思えて
実はそうでもない。
タイムラインの川に
流れてくるもののほとんどは
自分が見たいと思っているものではない。
見せられている。
ほんの小さな不可解さと不快感を感じながら
まぁいいやと思って見る。
見る。見る。
それを繰り返していると、
少しずつ何かが
川底の泥のように溜まってゆくのが分かる。
それは届きそうに思えて
届かない残念さのようなものでもある。
私の見たいものは
いったい何だったのだろうか。

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対峙

何も変わってはいないが
何かが変わったような気がする時、
何もかもが固定されておらず
常に変化しているということに気付く。
私たちは波打ち際に居て、
満ち引きのやりとりに
弄ばれているのである。
十一月も半分を過ぎたなら
そろそろ秋も終わるのだろう。
しかしまだ樹木は葉を纏っていて
空を見上げている。
先日、テレヴィジョンで
外れないネジを作っている人を観た。
一方方向にしか進まないボルトを
対峙させると
お互いをロックして
動かなくなるのだそうだ。
安定というものは
そういうものなのだな
そう思った。

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別緑色世界

夜のスーパーに万願寺とうがらしがあった。
私はそれを手に取って眺めていた。
外は雨が降っていた。
パックに入って山積みになったそれは
鮮やかな緑色であった。
緑は光をエネルギーに変える力を持っている。
まるでソーラーパネルのように。
私はそれを羨ましく思った。
幼い頃、緑は憧れの色であった。
山の中で育った私にとって
緑はどこにでもあったのだけれど、
沢山あるからといって疎んじてはいなかった。
何もかもが緑ならばよいと思っていた。
それらは光を欲し、光のためにあった。
私は満願寺とうがらしを籠に入れた。
それからその他の緑に目を走らせた。
外は雨が降っていた。

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立冬

冬が暦に現れるようになると
夜は私に冷たくするようになった。
それは私のせいではないが、
暖かい南の国から辿り着いたゆえ、
私にも何らかの落ち度があったのではないかと
思ったりする。
点滅する光を、自転車に灯して夜を走ると
後方から黒い服を着た男が
黒い風のようにペダルを漕いで
私を抜き去っていった。
居酒屋には人々が集っており
住宅街からは夕餉の匂いがした。
猫はもう階段の下には見当たらなかった。

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入り口

いつだって入り口である。
夜、ベランダに出てみると
当たり前のように
オリオン座が昇っている。
季節はシフトチェンジをして
冬に向かっている。
車屋は私の留守番電話に
新しい車の試乗会があると吹き込む。
売りたい者は
買いたくない者にも
売り込みをする。
この頃は
疑問無く答えを求めることが増えている。
街角で若人は
訴えたいこともなく歌を歌う。
それはたぶん「スタイル」である。
形を求めている。
すべてのものごとに
形があるべきだと思っている。
人は歳を取ると
ネガティヴなことを記憶するのはやめて
ポジティヴな事だけを記憶するようになるのだと
アナウンサーは伝えた。
科学は多くのことを「証明」してみせるが、
どんなことも
ずっと昔から
感覚として分かっていたことである。
当たり前のことを
当たり前のように信じても
よいのではないかと思う。

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季節

今日から季節が変わったと思えることが
時々あるけれど、
それはたぶん
その日の風向きのせいで、
仕事のように
スケジュールの線が引かれるものでは
ないのだと思う。
つまり、入り混じっていて
混沌としたものだろう。
そういう曖昧な時期が
私の体を通り過ぎるから
なぜだか私は草臥れている。

「歩く」ということを
スキップすることだと思い込んでいたりすると
とても間違った人生を送ることになる。
どんな場合もうまく歩けず、
そしてなぜ自分がうまく歩けないのか、
まるで分からないからである。
人にたやすくできることが
自分にはどうしてもできないように感じるだろう。
あなたが「歩く」ことだと思っているのは
「スキップ」なのだ、と誰も教えてはくれない。
私がやっているこれは
本当に「歩く」ということなのだろうか
と疑問に思って検証しないかぎり
解放された毎日はやってこない。
わたしには時々そういうことがある。
うまくやりたくて、うまくできないことは
だいたいそのような思い込みからきている。

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測定

いつまでもやってくる台風のせいで
夏を引きずったまま空を眺めている。
前線はいつまでもそこに横たわっていて
私が望む高い空は
なかなか見ることができない。
空気に含まれた南のこころざしが
南側の窓から流れ込んでくる。

このごろ
「きもちわるい」という言葉を
人や物に対して多用する人がいて、
それを私は好ましく思っていないようだ。
伝わりそうで伝わらない言葉。
それは価値観というものに深く根を下ろしていて
年齢や性別や趣味嗜好といった、
選択によって異なる複雑な細い道の先にある言葉で
とても生理的で肉感的な表現だと思う。
辞書には「からだのおかれた状態に応じて起こる、
快・不快などの感覚」と書かれている。
自分でも時々、使ってみたりするけれど、
とても個人的な感覚を一般化する試みとしては
中途半端に投げ出した気がして違和感が残る。
「きもちわるい」は全てを否定する。
それは完全なる否定で何も救わず、
何もかも切り捨てる。
私はそういった他人の「嫌悪」というものから
遠ざかりたいと思っているのだと思う。
そして、嫌悪をあからさまに表明することを
あまり好ましく思ってはいないようだ。
それはとても子供っぽいことだと思う。

必要なのは睡眠と音楽だと思う。
それはずっと昔から変わってはいない。
私は誰にも何も求めてはいない。
ただ、もう少し正確な距離を
測りたいだけなのだと思う。

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神無月

十月の東京に神はいない。
空はまだ曇っていて
ときどき雨を落とす。
日が暮れるのがずいぶんと早くなって、
人の居る場所に
灯りがともる。
私は私の灯を背負って
ベランダからそれを見ていた。

幼い頃
家の前に小さな沼があった。
沼の周りには草が茂り、
その脇に無花果の木があった。
夏を過ぎるとその木には
沢山の無花果がなった。
私は兄とその実を取って食べた。
茎から出る白い汁が
腕についてかゆかった。
私はランプのようなその実の膨らみに
何か惹かれるものがあって、
いつも無花果の木を見上げていた。
ある日、職人がやってきて、
無花果の木をノコギリで切り倒した。
草は刈り取られ
沼は埋められて
アスファルトで舗装され駐車場になった。
ただ黒くて平らな地面がそこにあって
父親が買った車が停められていた。
「きれいになりましたなぁ」
訪れる人は口々にそう言った。
きれいになる、ということは
つまらなくなる、ということなんだな。
その時、私はそう思った。

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静止

カフェの壁には大きな絵がかかっている。
そこには池が描かれており、
池の周りには歩道があって
いくつかベンチが置かれている。
犬と散歩をしている紳士と
ベビーカーを押している婦人がすれ違う。
池に浮かんだボートには
恋人らしき二人が乗っている。
ベンチでは女が本を読んでいて
傍らに自転車が停めてある。
なんていうことはない絵である。
どこにも不思議なところはない。
ただそれが二次元で
壁に掛かっているということを除けば。
私は珈琲を飲みながら
それを眺めていた。
鞄の中の本を取り出す気にはならず、
スマートフォンの画面も見たくなかった。
珈琲は減ってゆき
窓の向こう側を人々は忙しく行き交っていた。
しかし壁に掛かった絵の世界は止まったままで
いつまでものどかな昼下がりが続いている。
私にはだんだんそれが奇妙な事に思えてきた。
ものが止まって見える時、
それは実際に止まっているのではなくて、
それと同じ速度で自分も移動しているのだ
誰かがそう言っていたのを思い出した。
静止衛星のように
私もまた絶望的なスピードで
どこかに移動しているのだろうか。

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