大きいと小さい

しばらく前に小さい車に買い替えた。
それまでは、排気量が大きい
セダンに乗っていたが、取り回しが重いのと
燃費もよくないので、イタリアの小さい車に
乗り換えた。
今までの排気量の三分の一で燃費もよい。
窮屈だとかパワーが足りないだとか
レビューでは言われているが、
車と人との関係性というのは、
しういうことではなかった。
呼吸が合うかどうかなのだと思う。
しかし、面白いことに、
この小さな車で走っていると、
よく大きな車に煽られるようになった。
前の車の時にはほとんどなかったが、
この車だと、大きなワゴン車がギリギリまで
詰めてきたり、高速道路で前方に
無理やり割り込まれたりするようになった。
またひとつ人間の愚かな特性が
よく見えるようになった。
大きなものは小さなものをぞんざいに扱う。
意識的にせよ無意識にせよ常にそう。
中に乗っている人には無関係に
ただ大きいか小さいかだけでそうなのである。
たぶんそのように遺伝子に刻まれているのだろう。
つまらないことだ、いつもそう思う。

カテゴリー: 諸行無常 | 大きいと小さい はコメントを受け付けていません

民意

二千二十年を超えたあたりから
何故だか私は年がよく分からなくなった。
今年は果たして何年だったっけとよく思う。
そもそも二千年というものは
宇宙を旅するような年だと小さい頃から
思っていたから、
私にとっては夢の時代なのである。
しかし、その夢の時代にテレビを点けると、
戦争と災害と汚職のニュースで
埋め尽くされていて、幸福な光はどこからも
もれてこないのである。
これはいったい、とういうことだろう。
科学がいくら進歩しても相変わらず人は
人の頭の上に爆弾を落とし、
人々は古い建物に住み、政治家は金を
ばら撒くことで人の支持を得ようとしている。
どこかで、私たちは間違ったのか。
いいや間違ってはいない。
根本的な人間の特性というものを
どのように制御するかということを
誰かが考えてくれるだろうと思い込んで、
自分は自分の仕事の事だけを考えていたから、
こんなことになっているわけで、
それは当然のことだろう。
代表者というのは「点」である。
面ではなくて点で支えられているのが
この世界のありようだとすると、
大昔と何も変わりはしないのである。
そういうことが分かってきた。

カテゴリー: 諸行無常 | 民意 はコメントを受け付けていません

老人の発見

ときどき立ち飲み屋のカウンターなんかで
格言めいたことを大声で語る年寄りがいた。
歳を取るとあんなふうになるのか
嫌だなぁ、あんな年寄りにだけは
なりたくないものだと思っていた。
そして年月が過ぎて自分も歳を取る。
いつまでも若くはないのである。
歳を取ってみると、あの年寄りの気持ちが
とうとうわかってくる。
年寄りも新しいことを発見するのだ。
若い頃と同じように
そうか世の中はそうなっていたのかと
初めてわかって、驚き、納得して、
それを誰かに言いたくなる。
しかし、年寄りよ、それはあなたの歳になって
それまでの経験もあって
初めてわかった新しいことなのであるから、
若人に話しても通じることはなく、
ただの格言めいた決めつけに聞こえるのだ。
だから若人よ、そういう年寄りに会ったら、
「そうですか、わかってよかったですね」
とでも言ってあげよう。
年齢も価値観も違う人に自分がわかったことを
正しく伝えるためには相当な技術が必要で、
作家になるような訓練が必要だろう。

カテゴリー: 諸行無常 | 老人の発見 はコメントを受け付けていません

小さな問題

生きてゆく上で大きな問題を
解決するのは難しいけれど、
実際に効果があるのは小さな問題を
取り除くことではないか。
そんなことをこの頃よく思う。
通る時にいつも避けなければならないような
邪魔な荷物をどけ、
重いドアは開きっぱなしにして、
目障りな小さなガラクタを箱に入れ、
流しの角の汚れを拭き取る。
そういうことで随分心が晴れるものだ。
この間、洗い物をする時に
トレーナーの袖を捲っても捲っても
落ちてきて濡れるのが煩わしいので、
袖留めを買ってみた。
単なるゴム入った長さ調整できるバンドだが、
それがとても良くて快適。
心のおもりがひとつ取れた感じがする。
ひとの世界は些細なことで組み上げられている。

カテゴリー: 諸行無常 | 小さな問題 はコメントを受け付けていません

師走

いつもばたばたしているような気がする。
あっという間に師走になってしまって
あれ? おかしいなと思っている。
私にとって準備万端ということは
どんな時もないのだろうと思う。
さて。

カテゴリー: 諸行無常 | 師走 はコメントを受け付けていません

言葉

言葉がぶくぶくと湧いて出てくるような
そんな経験をしたことはなくて
捻り出す感じでものを書いているが、
なぜそうなのかについて
あまりよく考えたことがなくて、
そうなんだから、そうなのだろうと
単純に捉えている。
しかしそういうところが至る所にある、
そういうことに、ふと気づいてしまった。
たぶんそれは自意識によるものである。
つまり他者に自分がどう見られているか、
あるいはどう見られたいかということである。
自分は見窄らしい人間であると思っていて
故にそういうことからは遠いと思っていたが、
それこそが思い違いなのであった。
見栄えのよい人というのはよく
鏡を見るものだろう。
だから、自分の姿というものをよく知っているが、
見栄えの悪い者あるいはそう思い込んで
いる者は自分の姿を知らず、
故に現状の自分の最適な解というものを
見つけることができず、過大に見栄えを
制御しようと考えてしまうところにおいて
無理があり、その結果冒頭に記したような
捻り出すような無理に至るのである。
自分の姿をよく見るということは
自分の姿なりの最善を見つけるという意味で
とても大切なのだと思う。

カテゴリー: 諸行無常 | 言葉 はコメントを受け付けていません

眼鏡

九月になった。
今年は蝉が鳴き止むのが早い気がする。
発音していた全個体が亡くなって
失われたのだと考えると
秋の訪れというのは随分罪深いと思う。
眼鏡は体の一部じゃないと
誰かが歌っていたが、二本目の眼鏡を作った。
「老眼鏡」などと言うのは日本だけで
海外では「リーディンググラス」と言うらしい。
つまり読書眼鏡。
でも今回作ったのは焦点距離を少し長くして
仕事用、つまり「PC眼鏡」
お前は「目だけはいいね」と親にも言われていて
それは決して褒め言葉ではなかったけれど、
目さえも悪くなった。
母親も若い頃は目だけはよかったと
何度も聞かされた。
職場の脇を流れる広い河の向こう岸の道を
自転車で誰かが走っているのを
窓越しに眺めて「あ、川上さんだ」と
認識できるぐらいだったそうだ。
そういう母も晩年は眼鏡が手放せなかった。
季節というのは移り変わるものだ。

カテゴリー: 諸行無常 | 眼鏡 はコメントを受け付けていません

温度

八月になって立秋も過ぎた。
太陽の傾きは増して残暑の光。
しかし南から吹く風は灼熱を運んでくる。
人間が許容できる「温度」は狭い。
四十一度の風呂には入れるが、
四十五度の風呂は熱すぎて入れない。
三十六度の体温は平熱だが、
四十度の体温は高熱である。
ほんの数度で人には受け入れ難い環境になる。
最高気温が三十六度とか三十八度とか、
クーラーというものが発明されていなければ
自分なんかはとっくに伸びている。
色々なことがずいぶんまずいことに
なっているような気がする。
私が気に病んでも、そこに画期的な何かが
できるわけではないのだけれど、それは
すべて人によってもたらされている危機で、
私もその愚かな人の一味なのである。
そういう絶望の膜に覆われて、今日も
空に浮かぶ入道雲を数えている。

カテゴリー: 諸行無常 | 温度 はコメントを受け付けていません

夢の夢

ぼんやりしているうちに
七月も半分過ぎてしまって
林では蝉が鳴いており
体温くらいの気温が続いたりして
間違いなく夏なのである。
しかしどうも私は
これを夏だと認めたくないような
そんな気持ちを持っているようだ。
人工的に作られた舞台装置で
強いライトがあてられていて
何か台詞を言わなければならないが、
私は台詞を忘れてしまって
ただ客席の方を見ている。
客席には誰も見えない
たぶん強いライトのせいで目が
おかしくなってしまったに違いない。
そんな心持ちである。
そのくらい現実世界と心が
離れてしまったのではないか
そんなことを言ってみるが、
いまはもうどんな人ともそういう事実を
共有することはできないかもしれない。
つまり季節って温度のことではないと
私は思っていて、温度以外のあらゆる
瑣末なことをテレビのニュースが
掃除機のように吸い取ってゆく。
このごろ長い夢をよく見る。
もしかしたら、夢はずっと続いていて
これも夢の中なのかもしれない。
夢から覚めたら、私は小学生だろうか
それとも老人だろうか。
とにかく冷たく冷やした麦茶を一杯
飲んでみることだ。
そうすればきっと分かるだろう。

カテゴリー: 諸行無常 | 夢の夢 はコメントを受け付けていません

梅雨

梅雨に入ったとみられる
予報士は四角い画面の中で言う。
しばらく前から雨が続いていたから
雨の季節だということは十分わかっている。
しかし予報士のこの宣言が
世の中には必要なのだろう。
ひとは全てのことに名前をつける。
おかげでこうやって言葉によって
あらゆる事を伝えることができる。
見渡すかぎり、名前がついていないことは
ほとんどない。
だから何もかも言葉で伝えられるはずだが、
意外にそうでもないのは
名前が多すぎるせいで、適切な言葉を
選ばなければならないからだ。
何でも言い表せるようにしたことが
かえって色々な事を難しくしている。
例えば「愛」という言葉があるけれど、
この言葉をびったりと体に合った
洋服のように着こなせる人は
どのくらいいるだろう。
名前を考えた人と使う人は違う。
本当は自分の考えた言葉を使うべきなのだ。
勿論そんなことは不可能であることを
私も知ってはいるし、
そもそも自分で作った言葉は人に通じない。
だから結局、言葉で伝わっているのは
伝えたいことのせいぜい半分程度だ。
そう思って言葉の向こう側にあるものを
想像する必要があるだろう。

カテゴリー: 諸行無常 | 梅雨 はコメントを受け付けていません