悟り

「真理」みたいなものは
歳をとって、ある日突然発見する。
そうか、なるどそうだったのかと思う。
なんで僕は今までこんな簡単なことに
気づかなかったんだろうとびっくりする。
それで年寄りは若人に言うのだ。
「きみね実はこういうことなんだよ」
などと得意になって説明するのである。
自分がこの歳でもしこれがわかっていれば、
人生はどんなに豊かだっただろうと思いながら。
しかし若者の顔は微妙に歪んでいる。
「はぁ」と虚な声が響くだけなのである。
年寄りの驚きと発見は年寄りのものなのである。
若い時に知っていればと思うかもしれないが、
若い時に知るには、若い時にそのように
体ができていなければならないのだ。
「悟り」というものには形がない。
だから説明することは不可能なのだが、
その時に得た自分の悟りを
言葉で説明しようとするとき、
それは単に長い物語であり、他者にとっては
ただ退屈なだけなのである。
年寄りはその悟りをギターで弾けばよい。

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長い夢

ゆうべは長い夢を見ていた。
夢なのだから、もっと自由に
楽しさの限りを尽くすような夢を
見られればいいのにといつも思うが、
僕が見る夢はいつも現実が少し
捻じ曲がったおかしな世界にいて
あまり楽しくない夢ばかりである。
「夢」という言葉を単体で使うと
将来起きたらいいなという理想であるが、
実際に見る夢はそうでないというのは
なぜだろうか。
そもそも、今見ているこの世界は
夢ではないのだろうか。
多くの植物は生まれて、茎がどんどん
伸びて、伸びてその先に蕾ができて
最後に花が咲く。
夢にはその花の秘密が隠されては
いないだろうか。
目覚めると青空が広がっており、
そして心地のよい風が吹いている。
夢と夢の間を行き来しているだけのような
気がしてならないのだ。

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パスポート

「パスポート」という言葉は
約束の言葉のような気がする。
どこか美しいところへ
無条件で招待されたような。
パスポートは特別なものだから
うやうやしく受け取らねばならない。
何度目かのパスポートの更新に出かけた
といっても、電子申請なので
受け取るだけなのだ。
しかし、受け取るだけが五十人待ちだった。
私は一時間の間、本を読んでいた。
小さな子を連れて来ている人もおり、
子供は飽きて、嬌声を上げながらその辺りを走り回り
親は負けないぐらいの声で、静かにしなさいと叫ぶ。
賑やか、と言えばいいのだろうか。
私は元気な子供にどう向き合えばいいのか、
子供の頃からわからなかった。
受け取ったパスポートは
全てのページに薄く江戸の浮世絵が印刷してある。
どれも富士山を背景にしたもので、
とても美しい出来栄えである。
特別なものでよかった。
しかし、私は目的があってパスポートを
更新したのではない。
ただパスポートを持っていたかっただけである。
いつでも招待状を抱えたままで
いたいのである。

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スポーツが怖い

「スポーツ」と言われるものを
見るのもするのも好きではなかった。
突然そうなったのではなく、幼い頃から
そうなので、なぜそうなのか考えることも
なかった。
あらゆることには訳があり、
それをよく考えることが、
よりよい生き方に繋がる。
そう思って考えてみると、
私はスポーツが怖いのだと思う。
選手の剥き出しの闘争心というか、
それは野生的で、時々雄叫びを上げたりする。
そこに私は共感を持つことができず、
ただ恐ろしいと思うだけなのだ。
そんな相撲取りや野球選手や
そういう人たちを見て、どうしてみんな
面白いと思うのだろうか。
「戦い」というのは全般的にそのような
性質を持っていて、私にとっては
その戦いぶりが恐怖でしかないのだ。
もしかしたら、それを「技術」として
見るのであれば、もう少し楽しめるのかも
しれないが、なかなか難しい。
そう考えると、私はあらゆることを
怖いか怖く無いかの天秤にかけているのだ。
「恐怖」というものに対する
徹底した拒否が幼い時に作られたのだと思う。
そういうことがこの頃分かったところである。

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西暦2025年

気づくと季節が進んでいる。
特別時間に余裕がないというわけではないが、
逆にあまり時間に囚われたくないと
私は思っているに違いない。
この頃、「私」というのは、こうやって意識を持って
脳で考えているものだけではなくて、
その他の細胞のことをでもあると
改めて考えるのである。
意識によって自由になることが、あまりにも少なく
私という体を会社のように考えるならば、
社長である私の言うことを聞く従業員はわずかである
ということである。
大部分の従業員は勝手に動いて自分の職務を遂行している。
社長の言うことを聞けと無理強いすると
雑な仕事をしたり、ストライキを起こしたりする。
普通の会社と違って、私と言う会社は
従業員が一人でも辞めると大ごとになり、
場合によっては倒産したりするので、
相当な気遣いを持って会社をやってゆかなければならず
それはもう大変な激務なのである。
しかし、逆の立場で考えるならば
「あなたが社長だと勘違いしているから迷惑なのだ」
そう従業員は言うだろう。

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天気図

秋雨前線が北から降りてくる。
緞帳のように降りて夏が幕となる。
そういうことを見せてくれるのが
天気図である。
小学生の頃、夜、気象通報を聞きながら
天気図を描く練習をしていた。
「御前崎、南東の風、風力三、晴れ、
 十一ミリバール、二十四度・・・」
この頃の天気予報では
天気図がほとんど表示されない。
アメダスのデータを元にした表示と
雨雲のレーダー情報と降水確率。
人々は答えを求めているのだろう。
天気図は理由を示しているが、
いまの世の中に理由は不要になっている。
気圧配置と風向きから空のことを
想像するのが好きだった。
結果と結論だけの世界には
物語がなくつまらないと私は思う。
そうだ、私が求めているのは物語である。

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長月

わたしの八月は終わって九月である。
台風十号はいつまでものろのろと
そこらを彷徨っていて、
はっきりと形が無くなってしまっても
まだ空の景色を変えてしまうような
力を持っている。
あちこちで空が落ちてきて
困っている人がたくさんいるようだ。
わたしは炭酸水を飲みながら
灼熱の日々をやり過ごしてきた。
「水をたくさん飲みなさい」と
医者は言うのだが、
わたしが水から陸に上がったのは
三億八千五百万年前だから
今はそれほど水を必要としてはいないのです
そんな事を言うわけにもいかず
どうしたものかと思っていたが、
炭酸水ならば飲めるということに気づいた。
それで炭酸水メーカーを買って、
水を炭酸水にしてごくごくと飲んでいる。
もともと炭酸は苦手で、
イタリアに旅行に行っても、水を頼むと
普通に炭酸水が出てくるので
「アクア!」と言わなければならなかった。
それがどうしたことか、この頃は
炭酸水が水よりも飲めるようになったようだ。
しかし炭酸自体に強くなったわけではなく、
ビールなんかはそんなに飲めないのだが、
それはまた別の話か。
とにかくソーダの泡のように夏が終わると
そういう話である。

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情報

ネットが無い頃はどうしていたのか、
もう思い出せないくらいになっている。
しかし、考えてみるとどの情報も
誰だか知らない人が何らかの意思を持って
ネットの川に流す餌のようなもので、
その人は大きな魚を釣り上げようと
しているのかもしれず、
そういう餌に引っかからない心掛けが
必要になるのだが、それは
なかなか困難でしかも面倒なことである。
情報は選択しましょう、と偉い人は言うが、
蛇口を捻るととめどもなく出てくる水が
飲んでよいところと、駄目なところがある
と言っているようなものではなかろうか。
このごろは新聞を読んでいる。
ネットを流れてくる「ニュース」の顔をした
ものよりも、こころに優しい気がする。

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葉月

命に関わる危険な暑さです、と
予報士は何度も画面の中で言っている。
エアコンの効いている室内から
外に出ることが
宇宙船の船外活動のようである。
それでも朝、ベランダん出ると
毎日少しづつ違っている。
そう、季節は動いているのである。
駐車場にシオカラトンボが飛んで
季節を巻き取っている。
八月はヨットが水面を行くように、
音もなくなめらかに
進んでゆくものなのである。
暑中お見舞い申し上げます、と
私は言うのである。
それがふさわしいと思えるのである。

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水な月

この頃季節は二週間から三週間ほど
先にずれているような気がする。
六月に入ると紫陽花が目に映る。
小さい頃、実家の庭先に紫陽花があって
紫陽花との距離が今より近かった。
ところで、水無月の「無」というのは
当て字であって、
「ない」という意味ではなく音だけを
示しているそうなので、
「水な月」ということのようだ。
さっそく紐のような前線の筋が
天気図に現れているのを眺めながら
雨の季節を味わっている。

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