いつまでたっても、それほど涼しくならない。
季節は緩やかに下降しているが、今年があと二ヶ月と少しで
終わってしまうようにはとても思えない。
あと半月もすれば、もう十一月になろうとしているのに
今日は半袖を着て会社に行った。
オフィスに着くとむっとして、蒸し暑かったから、
壁のクーラーのコントローラーに手を伸ばして、スイッチを
入れようとしたら、コントローラー自体の電源が落ちていた。
変だなと思って、上を見たら、天井に埋め込まれている
エアコンが無かった。は?何それ。
と思いながらよく見ると、フロア中のエアコンが消えて無くなっていた。
エアコンが無くなった痕はプラスチックの板がはめられ、
周りがガムテープで固定してあった。
何だか冗談みたいだったけど、本当のことだった。
周りの人も驚いていて「ほんとだー、エアコンがないー」などと騒いでいた。
その後、分かったことは
ビルのパッケージエアコンが老朽化したので、全部廃棄したということらしかった。
パッケージエアコンが無くても、全館空調があるので、問題ないという判断のようだった。
全館空調というのは、定時内だけ、天井の穴から風が吹き出すあれだが、
全開すると寒すぎたり、暑すぎたり、直下の人が死ぬので
絞ってあって、かわりにパッケージエアコンで調整していたのだ。
今後、どうするのか、まぁこれから考えましょう、みたいな話しに
なっているらしかった。なんだよそれは。そうみんなで言い合った。
今日も室内は三十度だった。
うちわでぱたぱたと扇ぎながら、眠さを堪えるのが必死だった。
僕がもしも猫だったら、一日中寝ていただろう。
いや、あまり変わらないか。
夜、人が求めているのは、教訓ではなくて、共感なのだということに
気付いたのは、三十歳を過ぎてからだった。
今日こんなことがあってさ、と話す人が求めているのは共感である。
それなのに、自分は長い間「お前、それ間違ってるよ、そういう時はこうでああで…」
などと語っていた。恥ずかしい過去である。しかし、結構そういう人が多い。
喫茶店や飲み屋で耳をすましていると、私ならこうするとか、自分はこうしてきた
とか、説教じみた話しとか、果ては自分の武勇伝を延々語るような人もいる。
つまり人の話を聞いてはいない。正しいことを言おうと精一杯である。
しかし、そんなことはほとんど役に立たないのだ。
なぜなら、求められているのは教訓ではなく共感だからだ。
それに、正しさは個人的なもので、絶対的な正しさなどないのだから。
教訓なんて「私はどうしたらいいと思う?」と訊かれてから言えばいいものだ。
教訓は少なめに、共感は多めに。そう心がけたい。
とはいうものの、時々やっぱり言わなくてもいいことを言ってしまう。
戒めよう。