物理的なわたしの存在

わたしはいったい
どこにいるのかということを
時々考える。
たぶん脳の片隅のいくつかの細胞が
わたしがわたしだと思っているわたしである。
きっとそれは、わたしという認知を
支えているものであるが、
「からだ」というもの全体を見れば
ほんの少しの組織である。
わたしの「からだ」の全てが
わたしであるというのは
とてもおこがましい事ではないかと
この頃思うようになった。
たとえば何かの拍子に「わたし」が意識不明に
なって、ずっと眠り続けているとすると、
自動的に動作を続けているわたしの
「からだ」というものは、
はたして「わたし」なのだろうか。
それは、わたしだったものなのだ。
わたしは、わたしという会社に
ただ一人だけいる社長のようなものだ。
仕事もしてもらわなければならないし、
福利厚生も考えなくてはならないし、
給料も払わなくてはならない。
何もかもが社長の自由になるわけではない。
労働組合だってあるだろう。
そう考えると、わたしはわたしの体に対して
好き勝手をしていいわけではない
ということに気付くのだ。
何よりも社員の、そして家族の事を
思いやる必要があるだろう。

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