ぴーなっつ

深夜のスーパーには危険なものが沢山ある。
たとえばそれはお徳用ピーナッツの大きな袋である。
気付くと籠に入っている。
そんなものを買うつもりはないのだが、
そんなことを言わないで連れてってくださいよ
と、彼は言うのである。
私はリスではない。
たぶん違うと思う。
だからピーナッツを食べる必要はないのである。
しかし、食べる必要があるものとは何か
と考えると分からなくなる。
どんなものだって、食べる必要はないのではないか。
「わたしは生きるために食べているのであって、
 食べるために生きているわけではないの」
そう彼女は言ったが、果たしてそうなのだろうか。
何にでも「答え」みたいなものがどこかにあると
まだ思っているのは、教育の痛い痕跡である。
どんなに取り払っても、神経節の奥深くに潜んでいて
体が弱るのをずっと待っている。
あなたの思うことと、私の思うことが
どれだけ違っていてもかまわないのだが、
人は違っているということから、
劣等感のようなもののエッセンスを取り出して
頭から振りかけてみたりするのだ。
限定された自由の中を行ったり来たりしているうちに
人生というものは消費されるものなのだろう。
それにしても今日は、淡い夕暮れだった。
雲が薄く焼けるには風が必要なのだ。
そういうことがわかった。

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