波打ち際

季節はいつも肌に触れていて、
そうして雨はやってくるのです。
そういうことを知っています。
しかし、少しずつ変わるもののことは
気付かないことにしているものですから、
すっかり濃くなった街路樹に
あぁいつの間になどと思ったりします。
そして少しバスの窓を開けようと思うのですが、
それは固く閉ざされていて
開かない五月の窓のようです。
悲しみに明け暮れる人はたくさんいるようで、
しかしそれはある一面なのであって、
光が差す方にまわることを
諦めたのかもしれないと思ったりします。
くたびれるというのは
多分そういうことなのです。
新しい音楽はいつだって、
ポストに投函されているのです。
ただ丸い円盤の中に注がれた心が刻まれていて
そういった時空が
タイムマシーンにお願いしなくとも
ちゃんと目の前に再現されるということを
もう誰も不思議だとは思わないのです。
人々はどんなものにも馴れて
ほんの時々、遠い音に耳を澄ますのです。
波打ち際に来ていることに
気付いていないのです。
愚かなことでしょうか。
淫らなことでしょうか。
空虚なことでしょうか。
何かを定義づけなければ
何かを始められず、
何かを捨て去らなければ
新しいことに向かって行けないと
時々思ったりもしますけれど、
ずっと波打ち際を歩いて行けばいいのではないか
そんなふうにも思うような
重苦しい季節になってゆくのだと思います。

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