無常

するすると六月が進んでゆく。
私はギターの弦を替えて
対抗しようとするけれど
眠りの魔法を掛けられていて
身動きがとれない。
余った弦が
触覚のように伸びていて
ペンチで切断しようと思うのだが、
それさえもままならないのだ。

水の気配を
四方八方に感じている
しかしどこにも水は見えず
それくらい目は役に立たない。
せめてサングラスをかけて
紫外線を遮断してみる。
守られている
そんな気がする。
気休めだって構わないではないか
気持ちが休まるのであれば。
いつも何となく
分かるような、分からないような
曖昧な鏡の世界に暮らしている。

ドラマの終わりに
これはフィクションです、
と表示されて笑ってしまう。
テレビに映る世界で
フィクションでない事なんて
何ひとつ無いではないか。
最近は命に関わることさえフィクションである。
リアリティを求めてテレビを観ている人が増えた。
どうしたことだろう、と思う。
フィクションというものを
楽しめなくなっているのは
私たちが人にリアリティを求めすぎているからだろう。
自分以外の人間を通ったものは
全てフィクションなのだ。

イタリアの街を歩いて風景を映す
テレビ番組を観た。
確かに歩いたことのある場所が映ってはいたが、
私が自分の目で見て
私の中に取り込んだものとは
まったく違うものだった。
やっぱり
リアリティというものは
テレビには映らない。
リアリティは自分だけのものだ。
人に語ればフィクションになる。
そのことに何だか安心した。

冷蔵庫のドアポケットには
冷たい麦茶のボトルが入っている。
その残量が気になる。
いつ注ぎ足すべきなのか。
あるいは二本のボトルを用意するべきなのか
そういったつまらないことを考えていると
夜が平べったくなる。

ねぇ、そんなことを
くどくどと話したい夜もある。

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