イタリアから帰ってくると
季節は少し進んでいた。
空は水気を含んで、光を拡散し、
肌に触れるそれは
もっと切実に雨期の訪れを示していた。
いつものように
こうして空を見上げると
変わらない一日というものが待ち構えている。
イタリアはどうだったのですか
少し長めの休暇を貰って
海外に行っていたということを
多くの人が知っていて
だからそう訊かれるのだけれど、
そうですね
なんだか普通でした
と答えて、不思議な顔をされるのだった。
とっても楽しかったです
と答えればそれはとても簡単なことで
ひとことで済んでしまうのだけれど、
いったい「楽しい」というのは
どういうことだったか
考えてみると、よく分からないのです。
楽しいってどういうことでしょう。
私はひとりで暮らしているので、
たいがいの場合、ひとりで街を歩いている。
何かを見る時、
そばに誰か知っている人がいるわけではないので、
街や物との直接対峙することになる。
ダイレクトに入力されるそれらの情報を
自分の中だけで処理し
どこにも出力せず、情報を共有することもなく
「これって丸いよね、いや四角じゃない」
などというやりとりもなく、
丸いと思ったものを、丸いという意識のまま
自分に定着させる
ということを繰り返している。
これはすなわち
現像されていないフィルムのまま、
いま風に言えば、jpegではなくてRAWデータで
風景というものが記録されている
ということのような気がする。
楽しいというのは
簡単に言うと
声を出すことのような気がする。
だから
イタリアはどうだったのですか
という問いに対する模範的な回答は、
「とても興味深かったです」
というのが適切なのではないだろうか。
などと考えている。
しかし、なんだか
ものすごくイタリアというところが
近いところに感じられた。
遠くに来ていると
自分の心は感じていないようだった。
写真に撮ると、
何もかもが絵葉書のように写り込むのだけれど、
そうやってカメラに見えているものと、
自分が感じる物が異なるということもまた
不思議だった。