彷徨う霜月

歩いていると、突然もの凄いことに気付く。
これは、後で書き留めておかなくては
と思うのだけれど、駅に着いた頃には忘れている。
いったい何が凄いことだったのか、
さっぱり思い出せない。
たとえ思い出したとしても、果たしてそんな
つまらない事だったのだろうか、と思うような
当たり前で些細なことだったりする。
そういうことが多い。
断片というのは、多分いつもそんなものだろう。
しかし、歩くということは
何かを捕まえるためには良いことだと思う。

音楽にしても文学にしても、育てるものだと思う。
自分の中に最初から何かがあるわけではなくて、
それは種のようなものだろう。
だから、それは少しずつ育てなければならないのだけれど、
どのように育っているのか、取り出してみないと分からない。
演奏したり、書いたり、描いたりしなければ見えない。
そうやって、出力したものが、今の育ち具合なのであって、
それ以上のものが自分の中にあるわけではないのだろう。
だから、それを見て、修正しなくてはならない。
そうやって、自分の中に思ったとおりの、音楽や文学を
育てることが出来たなら、それでいいのだと思う。
「出力」することは目的ではない、それは鏡のようなもので
形を確かめるだけのものだ。手段であって目的ではない。
目的は自分の中に、自分の思う音楽や文学を持つことだと
私は思っている。

しかし、随分と寒くなった。
あのぎらぎらと暑い日々を送っているとき
冬なんて本当に来るのだろうかと思った。
人は同じ事を繰り返していると、すぐにそれ以外の世界が
想像できなくなる。
絶望を背負っているから、その重さで沈み込んでしまう。
しかし、そんなことはない。
冬はちゃんと来た。きっと、春も夏もまた来るだろう。
当たり前のことを、当たり前に思って
暮らせればいいと思う。

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