パンケーキ

もう随分前のこと、
という書き出しが多い。
いつの間にか現在の出来事が
すべて過去の記憶に紐付いていて、
するすると昔のことばかり引き出されて
目の前に並ぶのは
いったいどういうことだろう。

そう、随分前のこと。
来る日も来る日もケーキを焼いていたことがあった。
僕は小さな会社に勤めていたが、
工数売りのために
大きな会社に派遣されることになった。
その職場では暫くの間、残業というものがなかった。
だから、僕はまだ太陽のあるうちに
家に帰って、そしてぼんやりしていた。
ある日、帰り道の本屋でたまたま手にしたのが
お菓子の本だった。
それの何に惹かれたのか憶えてはいないが、
たぶん何かを作る、ということに飢えていたのだ。
それで、僕は、道具を買い集めて
その本に載っている菓子を端から作った。
焼き菓子やら、ゼリーやら、アイスクリームやら
白玉小豆のようなものやら。
それらを作って、それから食べた。
そして、当然のことながら、太った。
10キロ以上太って、85キロを越えたあたりから
あれ、オレはいったい何をやっているのだろう、と思った。
実のところ、お菓子を作ることも食べることも
それほど興味があったわけではなかった。
物事は繰り返せば上達する。
オーブンの特徴をつかみ、
最初は綺麗に膨らまなかったスポンジも膨らむようになり、
生クリームの泡立て方も分かってくる。
そうやって、上達することだけが目的だった。
そう、手段と目的が逆さまになっていた。
しかし、しっかりとした目的など見つけたくはなかった。
地球が太陽の周りを回る目的など無いように。
企みなどカケラも存在せず、
ただ、何となく生きているだけでよかった。
それが逃避であり開放だった。
僕はただ、ずっと遠くまで逃げたかったのだ。
しかし、地球は丸かった。
遠くに逃げれば逃げるほど、元の場所に
近くなるということに気付かなかったのだ。
間が抜けているのは昔から。
そして僕は、菓子を作るのをやめた。
道具は段ボール箱に詰め込んで押し入れに埋めた。

この間、ヨーグルトにかけようと思って、
メイプルシロップをひと瓶買った。
その琥珀色を見ているうちに、僕の中の何かが
「作るんだ」と言った。
え?
気付いたら僕は、箱の中から粉のふるいを取り出して
小麦粉とベーキングパウダーを、ふるいにかけていた。
そして、生地を作って
パンケーキを焼いていた。
そして、メイプルシロップを沢山かけて
ナイフとフォークで切り分けながら口に運んでいた。
4枚食べたところで、飽きた。
それから激しく胸焼けがした。

加齢とは少しだけ、物事が分かったつもりになることらしい。
何も変わりはしないのにね。

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