想像力の信憑性

だいたい一本に一花か二花
桜が咲いている。
安定しないのが春というものだとしても
雨粒は落下し
冷たく黒く沈んだ空
煙突の煙は南に長くたなびいている。
地球はターンテーブルのように回転し
私たちのうたを再生する。
様々な物語が氷像のように立ち上がり
そしてとけて崩れてゆく。
違う時空を飛ぶ鳥は
出会うことがなく
ただ風を切ってどこまでも飛ぶ。

この頃のものはつまらなくて
すっかり読んだり聴いたり
しなくなってしまいました。
黒木さんはそう言った。
つまらなくないものは、
どういうものなのですか。
私は訊いてみたが
答えは酒にとけて聞こえなかった。
ものごとの真理というものに
直接触れることはできないから
私たちは想像力をもって
それを解釈する。
どんな場所に行っても、
想像した通りのところは
どこにもなかった。
それくらい想像力というものは
あてにならないものだが、
時々自分にとってかけがえもなく
美しいものを取り出せることがある。
そういう時期がある。
人はそれを「体験」あるいは「経験」として
記憶する。
かつては、風化した石ころでさえ
とても美しい芸術として解釈できたとしても、
歳をとると
それが本当にただの石ころになったりする。
たとえ同じものを見ても
最近のものはつまらない、となる。
そして過去に美しいものが引き出せた頃の
自分の想像力の「体験」の記憶を取り出し
昔のものは良かった、などと言う。
それは言ってみれば骨粗鬆症みたいなもので、
貧弱になってしまった想像力を
昔と同じだと思い込んで美化している
老害という名の病気である。
想像力に栄養と酸素を送る必要がある。
今日を美しく解釈するために。

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