ことしのゆくえ

私は「暇」だと思ったことがない。
「暇」とは何かよく分からない。
それは、個々の断片が「関連」の線から
外れていると意識することではないだろうか。
私は必ずしも、物事が明らかな関連の連なりであることを
求めてはいないようだ。
それはばらばらに存在しても構わない。
そして次々に入力されてくる物事の断片を
断片のまま解釈する素性を持っている。
つまり物語を求めてはいない。
長い間じっとしていても
それは苦痛ではない。
様々な事が点として動いてゆくのを知っている。
軌跡は辿らない。
どんなことも不思議であり興味深い。
そうやって生きてきたのであるが、
自分が求めようとしていることには甚だ不都合だと
いうことに最近気付いた。
すなわち物語を作り出そうとする場合のことである。
物事は関連の線を辿って繋がってゆかねばならない。
そういう訓練をしないようにしてきた。
最初は意識的にやがて無意識に。
それこそが逃避であった。
しかしそれは何の形も生まないのである。
不可解な事象として
まるで壁の染みのように残るだけだ。
歌わなければならないのだと思う。
なめらかに、次の音に繫げてゆかなければならない。
レガートに奏でなければならない。
それは私にとってとても困難なことではあるが、
今年、やるべきことがあるとすれば
そういうことだろう。

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