誰かの言葉

信じられる言葉などあるのだろうか
と時々考えたりする。
それは電車に乗っていて
正面の女子高生が二人で喋っている言葉が
日本語として聞き取れず、
耳から受動的に流れ込んで来ない時などに
繰り返し考えたりする。
つまりそれは睡魔との闘いのようなものである。

この頃は何でもリツイートである。
あるいはシェアである。
それはもはや噂話でもない。
他人の言葉を、そのまま自分の言葉として
他人の時間の流れに押し込むのである。
「フォロー」というのは
相手のことを好意的に思っており、
その人の言葉をもっと聞きたいと思っているから
するものだと私は思っているのだが、
流れてくるのは他人の言葉ばかりで
いつまでたってもその人言葉は聞こえてこない。
相手がこの頃いいと思っていることや
目に触れて素敵だと思ったことを
知ることができることはよい事かもしれない。
しかし、なぜ自分の言葉でそれを語らず
そしてお気に入りに入れるだけでは物足りず
そのまま転送するのだろう。
どんな噂話でもかまわないから、
私はその人の言葉で聞きたいと思うのだ。
間違っているだろうか。
人の言葉を、自分の言葉として流しているうちに
自分の言葉が無くなってしまうんじゃないかと
私は不安に思う。
「いいね!」と思ったことが
自分にとってどのようによいのか、
自分の言葉で語ることで
本当のよさが分かるのではないか
と思うのだ。

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