宅配ボックスから小さな箱を取り出す。
それには炭酸ガスのバルブが入っている。
四十八本入っているはずだ。
通信販売で買った。
カランカランと金属が触れ合う音がする。
ソーダ水のもと。
誰が売っているのかも知らず、
誰が配達しているのかも知らない。
ただ夜中に宅配ボックスに入っている。
たぶん口座からは金が引き落とされている。
誰にも会わない。
誰かに会うことが煩わしいことだとは思わない。
それはシステムなのだ。
私はそういうカネの循環の中に組み込まれている。
そして水の中に炭酸ガスは放出される。
一千九百七十年の音楽を聴いている。
一千九百七十年の波動を復元している。
ぱたぱたとドラムは鳴っている。
前向きな音楽などもう聴きたくない。
それは伝えるべきことなのだろうか。
誰かに働きかけようとすることの
薄っぺらさを排水口に注ぎたい。
一昨日、蝉が鳴いているのを聴いた。
嘘じゃない。
スマートフォンで録音して
語りの波に流すこともできるだろうけれど、
そんなことをして何になるのだろう。
私は共感が欲しいのだろうか。
共感というのは何かの支えになるだろうか。
そんなことを考えているうちに
私は遠く離れてしまった。
小さなトマトを湯むきしてマリネにする。
子供の頃は嫌いだった。
母はいつもトマトを包丁で剝いた。
皮の付いたトマトの方がよかった。
要するに「中身」というものの価値を
私はあまり信じていなかったのだ。
物事は中身ではなくて
外側によいことがあると思っていた。
中身を求めることのいやらしさから
遠ざかりたかっただけだろう。