悟りの構造

日常的な悟りというものがあって
それは言葉にできない。
無理やり言葉にすると
至極単純な言葉でしか表せない。
押すとか押さないとか、
軽いとか触れるとか、
そういうような。
けれどある日、そういう単純な
言葉の向こう側にあるものが
突然ちらりと見える。
見えたような気がする。
なんだそうだったのか
そういうことだったのかと
手を打つ。
それは、ずっと言葉で聞いてきたことだが、
ひとつの言葉の力でそれを見ることはできない。
猫を見たことがない人に
猫とは何かひとことで説明するようなものだ。
それはもっと具体的で身体的なものなのだ。
しかし、それはとても厄介なことだ。
身体的なことを言葉にすることは簡単にできるが、
言葉から身体的なことを再生することは
できない場合が多いのだ。
たぶんそれは立体的だからだと思う。
高さがあって
そして緯度経度を持っている。
GPS衛生の電波のように
多角的に捉えて
そのずれから推測する必要がある。
すなわち様々な別の言葉を使って
そのことからの距離を測ればよい。
距離が測れる言葉を選べばよい。
というのが、本日の悟りである。

カテゴリー: 諸行無常 パーマリンク