終わりというものが見えていると
時は加速するのだと思う。
幼い頃よりも、確実に時は短くなった。
終わりというものが徐々に見えてくるからだ。
十二月は終わりの季節。
終わって始めようとすることが
私たちに課せられた運命なのだろう。
この頃、トリオ・メディイーヴァルという
ノルウェイの女性三人のヴォーカルアンサンブルを
よく聴いている。
重なる声の美しい残響がすっと消えて
次のフレーズが始まる間の
しんとした場所を
耳によって見ようとしている。
帰る場所がたぶんロックではないということを
何となく分かってはいる。
私は闘わない人間だから。
かといって遠くまで逃げるわけではなく
目の前に現れては消える絶望というものを
流れる光のように見ている。
もちろん不本意ではある。
このような人の道を辿るつもりではなかった。
しかし、どのような道を辿るかという
はっきりとした意志を持ち合わせてはいなかった。
一生というのは実際
逃亡生活のようなものだろうか。
しかし、何から逃げているのか
分かることはなく、そして逃げ通せるかも
分からないのだ。
でも、どんなに絶望の中にあっても
救いの光を見ることはできる。
それはたぶん歌のようなもので、
ふっと消えてしまうかもしれない。
しかし、それでも救いは確かにそこにある。
希望の欠片を掌に握りしめていればよいと思う。