「簡素」というのは
どのような場合も良いことだと思う。
適切な空白は
すなわち安らぎとそして孤独である。
しかしお金の匂いのするものはみんな
そういった空白を狙っており、
物やサービスや情報でそれを埋めようとする。
簡素であろうとする心をないがしろにする。
昼になると廊下に弁当が積んである。
朝、仕出し屋に頼んだもので、
それをみんなが取りに来る。
弁当の手前に、箸と、
それから「ふりかけ」の袋が置いてある。
ご自由にどうぞ、というわけだ。
ほとんどの人が「ふりかけ」の袋を取り、
それを弁当のご飯にかけている。
それは必要なことなのだろうか
と、ある日私は思った。
それで、しばらく「ふりかけ」を
かけるのを止めてみたのだけれど、
私には必要のないものだった。
なにせあれは塩分なわけだし。
「ふりかけ」は何もおかずが無い時にあればよい。
本来必要であるはずの隙間が
ごちゃごちゃと細かなもので埋まっている現状において
そういうものをひとつひとつ
爪楊枝で掻き出すような作業が
必要なのかもしれない。