遠い空

八月に入ったので、
白桃を取り寄せて食べた。
あの薄い皮を剝くとき
何か後戻りできない気持ちになる。
夏というのは
取り返しがつかない季節なのだろうか。

電車で隣の座席の男が
スマートフォンを耳にあてた。
若い男だった。
足を組んでいた。
あの機械は擦るだけではなくて
喋ったり聞いたりもできる。
「あのぅ、今日なんですけど」
私は男が遅刻の言い訳でもするのだろう
と思いながら、流れる緑を見ていた。
「そろそろそこに、窒素が届くんですよ」
男は何でもないように言った。
私はちらりと男を見て
それから向かいの女性の靴を見た。
「え、チッソですよ、チッソ、チ、ッ、ソ」
相手がえ?なに?とでも言っているのだろうか、
男は何度も窒素窒素と言った。
「えぇ、そうです、それで着くのがちょっと
 遅れちゃいそうなんで、ドアを、えぇ、お願いします」
そう言って男はスマートフォンを耳から離した。
チッソ
その言葉の響きが、何故だか私の中で
こだまのように繰り返されていた。
男はまた、スマートフォンを撫で回していた。

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