風の音を聴いていた。
キッチンの換気扇の下だった。
中段階のボタンが押し込まれていて、
テレビの音は聞こえなかった。
私は、白菜を刻んで炒めていた。
野菜を摂らなければと思って。
人は食べたもののようになるから
せめて冬の野菜を食べようと思って。
そういえば母は、白菜のことも甘藍と言った。
本当はきゃべつのことを言うのに。
その頃は自分も甘藍とは実際何をさすのか
知らなかった。
料理をするのは生きるためではなくて、
食べる自由を行使するためだと
この頃思う。
昨日、北欧系の家具屋を歩いた。
歩いたというほど広かったのだ。
二階にあるショールームと呼ばれるところに
展示してある家具に付いている番号を控えて
一階の倉庫のようなところに行って
自分でピックアップして台車に乗せ
レジに運ぶというシステムらしい。
巨大な家具でもベッドでもみんな。
私が買おうと思った本棚は
なかなか見つからなかった。
展示してあるものとは色違いの物が
欲しかったのだが、番号が分からず、
棚がなかなか見つけられなかったのだ。
やっと見つけて台車に乗せようとしたが、
重すぎてびくともしなかった。
仕方なく店員に手伝ってもらい、
なんとか台車に乗せたが、
いびつに出っ張った台車を真っ直ぐ
押すのに苦労して、なかなかレジに
辿り着かなかった。
この店は、店内や駐車場の標識も控えめで
ただ番号を書いた小さな標識が
ぶら下がっているだけだったりする。
海外の会社というのはなんと
不親切なのだろうか、と思いながらはっとした。
もしかしたら、これが自由
というものではないだろうか。
日本の会社ならば、分かりやすいディスプレイ
誰でもわかる標識、べったりと客について
説明する販売員、そのようなものを配置するだろう。
しかしそれは、店側の意図を行使するための手段で、
客を誘導し、同じ方向に歩かせ、同じようなものを買わせ、
即席の満足感を注入する。
客は頭を使う必要がまるでないのだ。
私たちはそういうことに馴れていて、
そうでなければ、サービスが悪いと悪態をつく。
どこに何があるか、自分はどこに行きたいのか、
頭を使って、それぞれが考えるということこそが
自由なのかもしれない。
自由は便利とは違うものだ。
そう思った。