曖昧模糊

言葉は便利だけれど、多分に曖昧さを含んでいるということを許容しなければならない。そして、そこが面白いところでもある。
たとえば「珈琲」と言ったときに、対象としているものの範囲はある程度狭まるけれど、ピンポイントではっきりと実体を指し示しているわけではない。マンデリンなのかモカなのかブレンドなのか、ペーパードリップなのかネルドリップなのか、あるいはインスタント珈琲なのか、どのようなカップに入っているのか、ソーサーはあるのかないのか。そんなことがまったく分からないにもかかわらず、私たちは珈琲という言葉を受け入れる。そして自分の頭の中で再生する。多くの情報を補完して、自分の知っている世界の中にそれを置く。そして、それが十分に伝わったような気持ちになる。実際の世の中はもっと緻密にできている、それは些細なこととして扱われる。そして、問題がないように見える。情報というのはたいして必要がない。伝えるということは緻密さとは反比例することなのかもしれない。

「おまえにはストレスなんかないだろ」
もう少し若人だった頃、よく先輩にそう言われた。
「えぇ、まぁ」
僕はいつもそう答えた。
自分にはストレスなどないと、ずっと思っていた。
しかし、それはストレスが無いのではなくて、
ストレスというものの実体が何なのか分からないから
分からない物は無いと思っていただけだった。
この前、ストレスは内側から働く力だと聞いた時、
はっとして何かが分かった。
あらゆる事はストレスによって、支えているのだ。
真実というのは、人の数だけある。

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