ぼくの必要はきみの不要かも

雨が穀物のために降るという日。
また季節の針が十五度進んだのだ。
朝は晴れて、花が散った後の
緑が美しく萌えていたけれど
夕方が近くなるとどこからともなく
雲が集まってきて、空を覆ってしまった。
四月という月のことは
実はあまり好きではない。
前向きに変化してゆくことが
どうもくすぐったく感じてしまって
落ち着かない日々が続くのだ。
それでなくとも、落ち着かない要因は
たくさんあるのだけれど。

必要のない灯りは消しましょう
ということで、いつものように昼休みになると
灯りが消され、みんな薄暗い中、
机に向かってお弁当を食べている。
変だなと僕は思う。
どう考えても昼休みの灯りというのは
必要なのではないか。
むしろ仕事の間、ディスプレイを見ている
間の方が灯りは不要なのではないだろうか。
なぜ、色合いの見えない食べ物を
毎日、食べなければならないのか。
これは一種の虐待と言ってもいいのではないか。
などと思ったりする。

しかし、考えてみると、
「必要」って何だか分からなくなる。
本も音楽も映画もゲームマシンも楽器もオーディオも
珈琲も紅茶も寿司もケーキもあらゆるガジェットも
何も無くても生きてゆけるだろう。
みんな同じ服でよく、名前も番号でいいだろう。
しかし、そうやって、生命を維持するために
必要な最小限のもの以外を取り払った世界を
考えてみると、人の個性の幅はずっと狭くなる。
地べたを這う蟻が「あり」というものでしかないように。
人は選択によってその形が表現される。
自分の中にあるものは目に見えない指向性なのだから
実際に選択しなければ、その人というものは見えない。
食べるものも、着るものも、住みかも、本も音楽も、
言葉も、学校も会社も友達も恋人も。
そう考えると、必要のないものというのは
ある人にとって、必要がないという
ただそれだけのことでしかないのだろう。
灯りは「必要がない」のではなくて、
誰もいない場所で「無駄になっている」灯りは
消しましょうということでいいだろう。
と、勝手に納得して、しかしだからといって
何も生産的ではない、夕暮れだった。

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