わかりにくいものとの付き合いかた

ソーシャルネットワークという映画を観てきた。
facebookを立ち上げたマークザッカーバーグが主人公の映画。
この映画、思っていたものと全く違っていた。
そもそも、facebookが何たるかはあまり描かれておらず、
大量の言葉のやりとりで、人との関係性や素性を明らかに
してゆくという台詞劇なのだった。
しかし、字幕は多分に意訳されており、emacsやPHPなんて
単語は訳されていないし、「Perlスクリプトを書き直さなくちゃ」
みたいなフレーズも正確には訳されていない。
専門的な単語を排除して一般の人にも分かり易くしよう
という配給会社の思いも分かるけれど、そういう訳ではこの
作品の本当の匂いというか、面白さというのは伝わらないの
ではないかと少し残念に思った。

世の中は分かり易いもので溢れている。
それは人々が分かり易いものを求めるからであって、
求められるものを用意するのが仕事である、と思っている
多くの労働者たちが、分かり易いものを作って売るからだ。
文学も映画も音楽もテレビ番組もそういう傾向がある。
勿論、分かり易い「構造」というのは必要であって
わざわざ迷路のような道を歩かせる必要もないだろう。
しかし、分かり易いものに慣れてしまうと、全てが理解
できることが普通である、という間違った認識を持つことになる。
分かり難いものが、駄目なものか、あるいは理解できない
自分が駄目なのかどちらかだ、と思ったりするようになる。
実際の世の中は、そんなに分かり易く出来ていないから、
どんな問題も不快なものとして自分の身にふりかかってくる。
全てが分からなくてもいいんじゃないか、と僕は思う。
正解を求めるのではなく、自分なりに「解釈」すればよく、
そしてそれには、適切な距離を持って接すればいいだけのことだ。
まぁそれはしごく当たり前のことであったはずだけれど。

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