なくしてしまった後で、その大切さに気付く
ということは、よくあることだ。
損なわれてしまったものは、戻らない。
だってもう、形がなくなっている。
しかし、大切さという観念は型抜きされたように
はっきりとした輪郭をもって濃く定着する。
まるで、そのものになってしまったかのようだ。
僕は電車に乗って、都心にゆくところだった。
適度に混み合った電車にはくたびれた人々の詰め合わせ。
そういう僕もくたびれている。もういい歳だ。
前の座席に座っていた若い男が、降りていって
座ることができた。ついている、そう思った。
座席に座って息を吐き出した時、
僕の前に年配の夫婦が立った。
低い背、深い皺、大きな荷物、旦那さんは帽子、
奥さんは青っぽい服、白くなった髪。
僕の中の何かが反応して、僕はバネのように席を立った。
それから座ってください、と婦人に言った。
婦人は「すぐ降りますから」と言ったけれど、
それでも勧める僕に折れて「すみません」と言ってから
ちょこんと座席に座り、それから目を閉じた。
その時、僕には善意など少しも無かった。
思いやりの気持ちもなかった。
また、年寄りには席を譲るものだという
倫理観もまったく無かった。
ただそこに、自分の大切なものが見えた。
ただそれだけだった。
とても利己的で自分本意な事だった。
しかし、僕は、その年老いた婦人を
じっと見ていることが出来ず、くるりと反対を向いて
車窓を流れる景色を見ていた。
河には、青い空が映っていた。