予報の通り午後から雨になった。
冷たい雨が涙のように静かに落下。
地表の紅葉、秋色の葉っぱが冬を知る時、
季節はまた一段進んで、息が白くなる。
ところで、ほとんどのことは、
何もしないで放っておくと、終わるようになっている。
十日も食事を摂らないと人は死ぬし、羽ばたかない鳥は落ちるし、
恋人にひと月も連絡しなければ、恋愛も終わるだろう。
まぐろは、停まったら死ぬというけれど、
我々だってそんなに違わないのだ。
そういうことに、なかなか気づかないのは
僕たちが野生から離れて、テレビばかり観て
生きてきたからなのかな、なんて考えながら
僕は小さな傘を差して、雨の中を帰ってきた。
信号の赤が滲んで見えるのは、雨粒がとても
小さいからに違いない。
何かを考えるとき、僕は言葉で考えているだろうか。
「答え」というものが、明快に存在すると
小さい頃から学校で教わって、育ってきたけれど、
そんなのは、嘘だったと学校を卒業してから分かった。
明快な答えなどというものは、どこにもなくて
それは綱引きのようなものだった。
どこかに、縛り付けておくことはできない。
だって生きていて、時間は経過してゆくものだから。
答えというものは、どう解釈するのかということでしょう。
僕が考えるのがのろいことと、大人になってから
ものが覚えられないことと、文章を書くのが遅いのは
みんな関係があって、それはたぶん、言葉のせいだ。
たとえば「恋愛」について、考えるときに、
「恋愛」という言葉をそこに置いて、何かを導きだそうと
頑張ってみたりする。そして、何も見つからない。
言葉は、アウトプットする時のフォーマットで
実際考えるときには、イメージで考えなければならなかったのだ。
まぁそれはきっと当たり前のことだろう。
しかし、イメージで考えるということに、僕は慣れていない。
幼くて語彙が少ない頃は、確かイメージでものを考えていた。
「僕はどうすべきか」という問いに対して、自分がやりたいことが
頭の中で動画あるいは静止画としてうかんでいた。
そうだ、あの感じを取り戻そう。