過剰な自意識と決別を

人が好きな自分と、自分が好きな自分は、大抵違うのが普通なのだ。
自分の好きな自分というものを、頑張って実現しないほうがいいと思う。
そういうエネルギーは他方に向けた方がよい。自分を嫌悪してはならぬ。
自分よりも、他人を好きになろうとした方がよい。
そうすることによって、他人の好きな自分はちゃんと存在し続ける。

ご飯を食べながらテレビを見ていたら、あるフォークシンガーが出ていた。
三十年前、僕はこの人の曲が好きで、深夜放送を聴いてギターを
コピーしたり、ライヴに行ったりしたものだった。
当時は「貴公子」などと言われていて、マッシュルームカットな頭で
白いスーツにエナメルの靴などを履いてライブに出てきたりした。
でも、それはそんなに違和感はなくて、そういうのが似合っていると
思っていた。しかし、それから年月が経って、彼はだんだん変わって行った。
短髪にして髪を染め、ソフトモヒカンみたいな頭になり、肌を黒く焼き、
声を潰して歌い方を変え、筋トレに励んで、筋肉の塊のような体になった。
細いサングラスをかけて、派手な皮の衣装を着て、オートバイで
ステージに出てきて、装ったしゃがれ声で、俺とお前の契りは…みたいな
歌詞を腕を振り上げてシャウトしているらしい。
その番組で彼は、俺はその頃の自分が自分の声が厭だったんだと語った。
それから、ボブディランみたいな短く切ったぶっきらぼうな歌い方で昔の曲を歌った。
彼は、彼の好きな自分になれただろうか。彼の好きな自分になって
それで、幸せだろうか。もしも、幸せで、それで何万人もコンサートに
お客さんが来るのならば、それはそれでよかったと思う。
しかし、僕は、もう二度と彼のCDを買うことも、ライヴに行くこともないだろう。
変わろうとして、変わった自己というものの不自然さは、結構おぞましい。
素性というものが、滲み出しているのが見えるのだ。
彼の魂は、昔と何も変わらないことがわかった。
体に合わない洋服を着て、どう、俺似合ってるでしょ、と言っているように見えた。
五十も過ぎた男だが、そういうところが逆に可愛らしくも、子供っぽくも思えて、
何だかちょっと微笑ましかったりもしたけれど。

大切なのは自意識から遠ざかることだな、とあらためて思った。

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