みかん

朝、加藤さんはすっとした顔で、広い範囲で雨になるでしょうと言った。
すっとした顔の加藤さんは、フラダンスを踊って、歌も少し歌い、
CDも出してみたりしていることを、僕は知っている。
成蹊大学に通っていたから、きっと吉祥寺のこともよく知っているだろう。
けれど、だからどうだということはない。
東京という街は、すぐ近所がテレビに映ろうと、自分もよく行くところを
有名な人が語っていようと、どうということはない。
それは少しも近くなく、自分から遠いことであるということを
みんな知っている。その辺りのことを、地方から出てきたばかりの頃は
不思議に思ったのだけれど、いつの間にか自分も醒めた人になっていた。

夜になっても雨は降らなかった。
一応折り畳みの傘を鞄に忍ばせておいたが、出番はなかった。
駅前のスーパーに行ったら、入り口に蜜柑が積み上げられていた。
一袋290円という値段だったので、僕はそれを買った。

小さい頃は蜜柑と心中したくらいに蜜柑の事を愛していて、
その色も形も匂いも食感も、何もかもが好きだった。
段ボール箱で買った蜜柑が納屋にあるだけで幸せな気持ちになった。
歳を取るというのは不幸なことかもしれない。
愛というのは磨り減るものだろうか。
蜜柑を買ってきても、一度に四つも五つも食べたりしない。
気が付いたら腐っていて、半量も食べられなかったりする。
あの頃の愛情は何だったのだろうと思う。
そして人はだんだん昔話ばかりをするようになる。
今を生きているのにね。

雨が降らなかったので、少し多めに買い物をしたら重かった。
重いものばかりを買ったのだ。
米、味噌、キャベツ、蜜柑、豆腐、挽肉、その他いろいろ。
二つの袋に分けて、両手にぶら下げて帰って来た夜の道を。
少し冷たい風が吹いて、空を見ると
だんだん丸くなってゆく月が、雲の間に見えていた。

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