じゅうぶんではないこと

何もかも十分にやろうと思ってるんじゃないだろうな。
中学生の時、親父はそう僕に言った。
今になって思えば、それは親父自身のことだったのかもしれない。
廊下には買っただけで読まれていない本が山積みになっており、
開封もされていない何だかの通信教育のパッケージや、
百科事典や画集、園芸関係の冊子、民謡のレコード集が
つまった箱などが、押し入れにぎっしりと入っていた。
僕はなぜあの時、それは、あなたのことではないのですか
と言わなかったのだろうか。
思い出してみようと試みるけれど、思い出すことはできない。
しかし、その時、僕は何もかも完全にやろうとは思っていなかった。
というより、何もなくて空っぽの状態だったのだ。
だから、親父の言ったことはまったく的外れで、意味がなかった。
このひとは僕の事をまるで分かってない、ということを
再確認しただけだった。
コップに注いでいる飲み物が、溢れ出しているように端からは見えて
実はコップの底がなくて、何も溜まらないのだということの違いを
どう表現すべきなのか色々考えたけれど、伝えても何も意味がない
という結論に達したのだろうと思う。

今日はあまりにも眠くて、さっきご飯を食べてから
またソファーで伸びていて、夢のあちら側とこちら側で
そんなことを何となく考えていた。

通勤時間が二時間延びたということは、個人的なことに使える時間が
二時間減ったということでもあって、しかし、それは誠に困るので
睡眠時間を削って、やりたいことをやろうとすると、このように
いつでもどんよりとのびているような状態になる。
僕は本当は何もかも十分にやろうと思っているのだろうか。

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