うどんのスープなら東マルにきまってる。
出汁がきいていて、薄口醤油の香り、味と色。
とても寒い夜
するすると、温かいうどんを啜ると、
お腹の中に幸せが落ちてゆくのがわかる。
その東マルの醤油工場が兵庫県のたつの市というところにある。
昔はたしか龍野市だったけど、最近はたつの市と表記するらしい。
河のほとりに醤油工場はあって、近くを歩くとそこらじゅう醤油の匂いがした。
その醤油工場のわりと近くに、またいとこのユカの家があった。
ユカは僕と同い年で、口数が少なく、活発なわけでもぼんやりしているわけでもなく、
なんというか、普通の静かな女の子だった。
父と母と、それから弟の四人で高台の家で静かに暮らしていた。
僕は小学生の頃、ユカとこの家族のことが好きで、毎年夏になると
ひとりで電車に乗って、たつのまで行って、随分長いこと泊まったりしていた。
夕方になると、山の上の赤とんぼ荘から、あかとんぼのメロディがきこえてきた。
山沿いの道を、いつも僕はユカと歩いて、そして夕焼けを眺めた。
父親は、近くにある工場の工場長をしていて、夜になると何人もの部下が
家にやってきて、客間で夜中まで麻雀をしていた。
煙草の煙、それからじゃらじゃらという音が聞こえてきて、
僕たちはそれを聞きながら眠った。
何もなかったし、何処にも行かなかったけれど、ただ普通に生きていてそれで
毎日の暮らしが楽しくて、僕はどうしてこの家に生まれなかったのだろうと思った。
だから、その町から帰る汽車に乗るときの悲しさったらなかった。
中学に上がると僕は、たつのに行かなくなった。
特別な理由があったわけではなくて、自分と複雑化した自分の周りの関係を保つことが
精一杯だったから、他のことに目を向ける余裕が無くなったのだろうと思う。
ユカとユカの家族は、冠婚葬祭の時も、うちに来ることはなかった。
考えてみると、あの頃、僕がいつもひとりで行っていただけで、父も母も
たつのには来なかった。あまり関係が良くなかったのかもしれない。
高校三年生の時に、ユカは就職を決めた、信用金庫に内定を貰った後、
初めて車に乗って家族で、うちまでやってきた。ユカは相変わらず無口で
時々さびしそうに笑った。その時も、ユカの家族はうちに泊まることはなく
少し寄り道をしただけで、帰って行った。それが僕がユカに会った最後だ。
それから暫くして、ユカの家は燃えた。火事で全焼したのだ。
火事の原因はわからない。訊き忘れたのかもしれない。
ぼうぼうと焼け落ちる家を見上げて、ユカは激しく泣いたのだそうだ。
祖母の妹がその後、うちに来て話しているのを聞いた。
幸いユカとユカの家族は避難して全員無事だった。
でも、あの高台の家はもうなくなってしまった。
そして、それからまた少し経った頃、今度はユカの父親の工場が潰れた。
工場長だった父親は、家族を連れて逃げた。相当な借金があったのだという。
ユカもユカの家族もいったい何処に行ったのか、行方が分からなくなった。
それから、ずいぶんと長い時間が経って、ユカたち家族は福岡に居ることがわかった。
ユカは結婚して、子供が二人いるのだと聞いた。
あの頃、何通もやりとりした手紙はどこにもなく、一枚の写真も残っていない。
たつので過ごしたあの幸福な時間は、もしかしたら幻だったかもしれないと
この頃思う。